おはようございます。この週末は、国内で悲惨な交通事故が続いたばかりか、海外・スリランカでも爆弾テロ事件が起き、多くの人が犠牲になっています。そうした中、日本各地では自治体の長や地方議会の議員選が行われました。何が何だかよく分からない週末でしたが、世の中は知らず知らずのうちに動いているという不思議さを感じているところです。
さて、本日は中山道の脇街道の一つである「川越街道」と「児玉街道」について紹介したいと思います。川越街道は、実は明治以降の呼び名で、江戸時代は「川越往還」や「川越道中」などと呼ばれていました。
川越街道は中山道の板橋宿の平尾追分で分岐し、上板橋宿、下練馬宿、白子宿、膝折宿、大和田宿、大井宿の6宿を通り川越城下に至る10里34町33間半(約43キロメートル)の道程です。大井宿と川越宿の間には、藤間中宿という宿場も設けられていたようです。また、この川越城下から塚越宿、石井宿、高坂宿、菅谷宿、志賀宿、奈良梨(ならなし)宿、今市宿、赤浜宿、小前田宿、広木宿、児玉宿の11宿を通り上野国藤岡に至る街道を児玉街道と呼びました。
そして、この川越街道と児玉街道を総称して「川越・児玉往還」といい、児玉街道は川越街道の延長路という位置付けであることから、便宜的に両者を総称して川越街道と呼称することもあります。この「中山道脇往還川越道(川越・児玉往還)」は総距離28里半(約114キロメートル)で、中山道より距離が短かったこともあり、女性の利用者が多かったことから「姫街道」ともいわれていました。
川越街道が最初に整備されたのは、室町時代の長禄元年(1457年)に、相模国守護大名の扇谷上杉家の当主・上杉持朝(もちとも)の家臣・太田道灌が江千代田城(江戸城)と河越城(川越城)を築き、部分的に存在していた道を繋げて二つの城を結ぶ道を作ったことが始まりです。古河公方に対する扇谷上杉家の防衛線として重要な役割を果たしていたそうです。
その後江戸時代に入り、寛永16年(1639年)に川越藩主となった松平信綱とその嫡男・輝綱が更にその道を整備して、中山道の脇往還としての川越街道になったといわれています。寛政年間(1789年~1801年)に焼き芋が流行し、文化年間(1804年~1818年)に川越産のサツマイモを使った焼き芋屋が、「栗(九里)より(四里)うまい十三里」と語呂合わせのキャッチを使って宣伝していました。実際には11里にも満たなかったのですが、そこは愛嬌といったところでしょうか。
高見澤