おはようございます。今日は平成最後のウイークデー、明日から10連休という方も多いのではないかと思います。週間天気予報では、東京は明日は雨日和ですが、概ね晴れの日が続くようで、お出掛けして気分を変えるのも良いかもしれません。とはいえ、人出が多いのが苦手という人もいるでしょうから、家でのんびりする時間があってもいいでしょう。私はといえば、少し集中して書かなければならない論文があるので、多少は外出するにしても、ほとんどの時間は自宅で資料やパソコンとにらめっこで終わりそうです。
さて、本日は最後に整備された五街道の「甲州街道」について紹介したいと思います。 甲州街道は「甲州道中」とも呼ばれ、本来は江戸日本橋を起点に、内藤新宿(新宿)、高井戸、府中、八王子、小仏(こぼとけ)、上野原、大月などを経て甲府に至る街道ですが、更に韮崎などを通って下諏訪で中山道に合流するまでを甲州街道とする場合もあります。
甲州街道は、古くから使われていた「古甲州道」を江戸幕府が整備したもので、江戸と甲府が開設されたのは慶長7年(1602年)と早かったものの、街道全体の整備が完成したのは明和9年(1772年)とかなり後の時代になってからです。江戸時代初頭には「甲州海道」と称されていましたが、正徳6年(1716年)4月に街道呼称整備が行われ、甲州道中に改められました。
甲州街道の宿場は、時代によって設置と廃止が繰り返されたり、複数の宿場で宿継ぎなどしたりして、正確な数は示されていませんが、一般的には江戸から甲府までの38宿と、甲府から下諏訪までの「信州往還」6宿を合わせて44宿、53里24町(約208キロメートル)、5泊6日ほどの旅程とされています。当初の第一の宿は高井戸でしたが、元禄11年(1698年)に内藤新宿が設置されて、内藤新宿が第一の宿駅となります〔享保3年(1718年)10月~明和9年(1772年)まで内藤新宿が一時廃止された時期がある〕。各宿の常備人馬は25人、25疋です。
武蔵国:[日本橋(江戸)]-内藤新宿-高井戸-国領-下布田(しもふだ)-上布田(かみふだ)-下石原-上石原-府中-日野-横山(八王子)-駒木野-小仏-〔12宿〕
相模国:小原-与瀬-吉野-関野-〔4宿〕
甲斐国:上野原-鶴川-野田尻-犬目(いぬめ)-下鳥沢-上鳥沢-猿橋-駒橋-大月-下花咲-上花咲-下初狩-中初狩-白野-阿弥陀海道-黒野田-駒飼(こまかい)-鶴瀬-勝沼-栗原-石和(いさわ)-甲府〔22宿〕
甲斐国:[甲府]-韮崎-台ヶ原-教来石(きょうらいし)-〔3宿〕
信濃国:蔦木(つたき)-金沢-上諏訪-[下諏訪]〔3宿〕
甲州街道が整備された理由は、徳川家康が江戸入府に際し、万が一江戸城が陥落したに甲府まで将軍が避難することを想定したものであったといわれています。このため、街道沿いには多くの砦用の寺院が置かれ、その裏に同心屋敷が設けられていました。甲府城を有する甲府藩を親藩とし、距離が短い街道であったにもかかわらず小仏と鶴瀬に関所を設け、沿道の四谷に伊賀組、根来(ねごろ)組、甲賀組、青木組の4組から構成される「鉄砲百人組」を配置するという念の入れようです。甲府は江戸幕府の外辺防衛の拠点で、甲州街道は軍事上、経済上の重要な街道であったわけです。
江戸時代中期までは、将軍家御用の茶葉を運ぶ「御茶壷(おちゃつぼ)道中」がこの道を利用したこともありました。また、享保9年(1724年)に甲州が幕府直轄地となると、甲府勤番の武士もこの道を往来するようになり、江戸時代後期には信州、甲州の農産物が甲州街道を通じて江戸に流れるようになりました。
甲州街道を参勤交代に利用した藩は信州伊那の高遠藩、諏訪の高島藩、飯田藩の3藩のみで、その他の藩は、臨時的に通ることはありましたが、通常は中山道を利用していました。下諏訪から江戸まで、距離が短いにもかかわらず多くの藩が中山道を選んだ理由として、甲州街道沿いの物価が中山道に比べ高かったこと、更にはインフラ整備が甲州街道よりも中山道の方が進んでいたことが挙げられます。このため、甲州街道は他の街道よりも交通量は少なかったようです。現在は、国道20号線を甲州街道と呼んでおり、ほぼ昔の甲州街道に沿った形となっていますが、交通量は少なくありません。江戸時代に整備された遺産が、現代にも活かされている良い例です。
高見澤