2019年5月アーカイブ

 

おはようございます。米国トランプ大統領の日本滞在で、物々しい警備が敷かれている東京都内ですが、最終日とあって今朝は昨日ほどの緊張感はないように思えます。とはいえ、最後まで気が抜けないのが外国要人警護の役目です。本日午後は私の所属先の決算理事会及び評議委員会があり、日本経済界を代表する重鎮が顔を揃えます。資料作成に気を抜けないのが私の役目です。明日29日からは宮城県仙台市で開催される日中経済知識交流会に参加のための出張で、31日に東京に戻ってきます。今週は、瓦版もお休みさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は「土佐街道(とさかいどう)」について紹介したいと思います。土佐街道もまた、讃岐街道や阿波街道と同じように、土佐国(高知県)に通じる複数の道を指します。その中には、すでに金毘羅街道や阿波街道のところで紹介した道もありますので、重複を避けながら説明していきます。

 

伊予国松山と土佐国高知を結ぶのが別名「松山街道」と呼ばれる土佐街道の一つです。松山から三坂峠を越え、久万(くま)、七鳥(ななとり)を経て土佐側の池川に出ます。その後、佐川、伊野などを経由して高知に至る道です。概ね現在の国道33号に沿っていますが、久万と高知側の大崎の間は仁淀川沿いから外れて、現在の愛媛県道12号、国道494439号を通るルートでした。この街道の最大の難所は標高720メートルの三坂峠で、幅員が狭く、最大8%の勾配とつづら折れの場所があるそうです。

 

伊予国川之江と高知を結ぶ道が別名「土佐北街道」と呼ばれる土佐街道の一つです。現在の愛媛県川之江市から新宮(しんぐう)、馬立(うまたて)を経て笹ヶ峰峠を越え、土佐側の立川に出て、本山町などを経て高知城下に至る街道です。記録によると延暦16年(797年)に北山官道として開かれたそうです。享保3年(1718年)以降、土佐藩主・山内氏がこの街道を参勤交代に使用しています。また、川之江から先の琴平までは「伊予・土佐街道」として、金毘羅参りに多くの土佐の人が利用したことは以前紹介した通りですが、土佐から川之江までは、この土佐北街道が使われていたのです。

 

阿波国と土佐国を結ぶ土佐街道は、「土佐浜街道」や「土佐東街道」とも呼ばれていますが、この道は前回紹介した徳島藩が整備した阿波五街道の一つである土佐街道のことを指します。ということで、ここでの説明は省略します。

 

上記の土佐浜街道を途中の橘(徳島県阿南町)から分岐して内陸に入り、四国山地の四ツ足峠を越えて高知に至る道を「土佐中街道(とさなかかいどう)」と呼んでいました。橘から内陸に入った土佐中街道は、桑野川沿いを西に向かい、鷲敷(わじき)から那賀川沿いに丹生谷(にゅうのや)を経て四ツ足峠を越えて土佐側に入ります。土佐側では物部川沿いに大栃(おおとち)、美良布(びらふ)、山田、後免(ごめん)を経て高知に至ります。現在は国道195号に相当する道で、阿波と土佐を山道で結ぶルートでした。

 

高見澤

 

おはようございます。5月下旬だというのに、この暑さは尋常ではありません。先週北京では最高気温38℃の中を3キロ余り歩いたこともあって、東京が3233℃といってもさほど暑くは感じなかったのですが、さすがに週末から今日にかけての暑さでは体調を崩す人がいてもおかしくはありません。この暑さの中、訪日中の米国トランプ大統領のために駆り出される警察官の皆さんもさぞ大変なことだと思います。あと二日間、頑張ってください。

 

さて、本日は「阿波街道(あわかいどう)」について紹介したいと思います。比較的限られた範囲ではあるものの、険しい山々やそれなりに大きな川が縦横に流れる四国には、讃岐、阿波、伊予、土佐という4つの国が存在し、それぞれの国を結ぶ街道が整備されていました。前回、前々回紹介した金毘羅街道や讃岐街道も他国に通じる重要な街道でした。ただ、限られた範囲という点で、出発する地点や向かう方向によって、同じ街道を別の呼び方をしているにすぎないということも、ご理解いただければと思います。

 

阿波街道もまた、讃岐街道と同様に他国から阿波国に通じる道を指すのと同時に、阿波国内を繋ぐ短い距離の街道も指していました。一般に阿波街道といった場合、大坂峠(志渡街道)、鵜の田越、境目など阿讃山脈を越えて讃岐国と阿波国を結ぶ讃岐街道を指し、讃岐側からみるとこれが阿波街道となったわけです。

 

阿波街道にも「阿波五街道」と呼ばれる5つの主要な街道がありました。いずれも徳島城の鷲の門を起点にした街道です。「淡路街道」、「讃岐街道」、「撫養(やむ)街道」、「伊予街道」、「土佐街道」です。このうち、讃岐街道は前回説明した志渡街道のことなので、ここでは省略します。

 

淡路街道は、徳島城鷲の門から、当時商業港として栄えていた撫養岡崎の渡(鳴門市)に至る4里(約16キロメートル)の道で、岡崎の渡からは船で淡路国福良(ふくら)〔兵庫県南あわじ市〕に渡りました。途中、古川渡し(別宮川)、鯛浜渡し(今切川)、東馬詰渡し(吉野川)、林崎渡しの4カ所の渡し場があったとされています。

 

撫養街道は、前回も少し紹介しましたが、商業港の撫養岡崎の渡しと池田町を結ぶ約67キロメートルの道です。藍、塩、葉タバコ、木材など、当時の産業を支えた物資を運ぶための道として、徳島藩主・蜂須賀家政が整備した街道です。四国巡礼に来た「お遍路さん」は、岡崎港に上陸し、撫養街道を通って西に向かったとのことです。

 

伊予街道は、徳島城鷲の門から吉野川の南岸沿いに西に向かい、石井、川島、穴吹、半田、井川、池田を経て伊予国川之江(愛媛県川之江市)に至る街道です。阿波国と伊予国を結ぶ重要な幹線道路として発展していました。

 

土佐街道については、次回詳細に紹介したいと思いますが、阿波五街道の一つとしての五街道は、徳島藩が整備した徳島から海沿いを通って高知に至る道のことを指します。徳島城鷲の門を出て、立江(たつえ)、羽ノ浦(はのうら)を経て古庄(ふるしょう)で那賀川を渡り、桑野、由岐、日和佐、宍喰浦(ししくいうら)を経て土佐国の甲浦(かんのうら)へ至り、そこから室戸、安芸、赤岡を通って高知に至ります。

 

こうした阿波五街道の他にも、五街道など分岐して峠道を越える脇街道がありました。撫養街道から分岐して讃岐国に抜ける板西郡の宮河内越え、阿波郡の日関谷越え、美馬郡の曽江谷越えなど、13カ所の峠越えが記録に残っているようです。

 

狭い範囲の上に、山あり川ありの複雑な地形を利用して交通を便利にするためには、各藩相互の協力があってはじめて成り立つのかもしれません。これもまたユートピア江戸ニッポンの大きな特徴です。

 

高見澤

 

おはようございます。昨夜、出張先の北京から戻ってきました。北京では、一昨日は中国側との会議の後、清華大学MBAに通って勉強を続ける企業経営者との懇談があり、それら結果報告をまとめ、昨日は午前中、河北省で建設中のスマートシティー「雄安新区」を視察、午後のフライトに飛び乗りました。チェックイン締め切りギリギリのタイミングということで、あと10分遅かったら乗り遅れていたところでした。今日は朝から今次出張報告と今後の対応について、経済産業省で打合せです。出張中の溜まったメールに返信する暇もないなか、この瓦版だけはお送りするようにしているところです。

 

さて、本日は「讃岐街道(さぬきかいどう)」について紹介したいと思います。讃岐街道とは四国の各地から讃岐国(香川県)に通じる街道のことを指します。俗に「讃岐五街道」と呼ばれる5つの主要なルートが知られています。讃岐五街道は「高松五街道」とも呼ばれています。

 

その一つが、徳島から高松に至る「志度街道」です。この道は徳島藩政時代に整備された「阿波五街道」の一つでもあります。徳島城の鷲の門から佐古、蔵本を経て徳命の渡し(藍田町)で吉野川を渡り、大寺(板野町)から大坂峠を越えて讃岐に入り、馬宿(引田)を通って高松城常盤橋に至る道です。途中、大寺では撫養(やむ)町岡崎(鳴門市)と池田町(三好市)を結ぶ「撫養街道(川北街道)」と交差しています。出入国を取り締まる関所が大坂峠に設けられていました。

 

讃岐五街道の一つに「丸亀街道」があります。この丸亀街道は丸亀港と琴平を結ぶ金毘羅五街道の「丸亀街道」とは異なるもので、高松城常盤橋から坂出、多度津を通り丸亀で南下して善通寺に至る街道です。

 

高松城常盤橋から「四国八十八カ所」の第87番札所の「長尾寺」(さぬき市)への東讃地域を東西に結ぶ道が「長尾街道」で、これもまた讃岐五街道の一つに数えられています。

 

高松城常盤橋から市内を南下して太田で分岐して仏生山(ぶっしょうざん)まで至るルートが讃岐五街道の一つ「仏生山街道」です。現在、高松市内から太田までは「塩江(しおのえ)街道」と重複していますが、塩江街道はそのまま塩江温泉を通って徳島県に通じています。仏生山には、初代高松藩主・松平頼重が菩提寺として建立した法然寺があり、門前町として栄えていました。

 

そして、讃岐五街道の最後の一つが金毘羅五街道の一つでもある「高松街道(琴平街道)」です。この街道については、前回紹介しましたので、ここでは省略したいと思います。

 

同じ街道でも、出発地点や向う方向によって呼び名が異なるというのは、江戸ならではのユーモアなのかもしれません。

 

高見澤

 

おはようございます。この週末、屋久島では50年に1度という大雨に襲われ、土砂崩れで300人余りが孤立したとのことでしたが、無事皆さん下山されたようで何よりでした。今日から明日にかけて、西日本、東日本の太平洋側を中心に雷を伴う激しい雨になる可能性もあるとのことですので、十分ご注意ください。私は明日21日から北京に出張で、23日の夜のフライトで戻ってきます。その間、瓦版は休刊となりますので、ご了承ください。

 

さて本日は、「こんぴら船々追手に帆かけてシュラシュシュシュ...」と、皆さんもご存知の香川県民謡の「金毘羅船々」でお馴染みの金刀比羅宮(ことひらぐう)と各地を結ぶ「金毘羅街道(こんぴらかいどう)」について紹介したいと思います。金刀比羅宮は讃岐国、現在の住所表示では、香川県仲多度津琴平町、象頭山中腹に鎮座する神社で「こんぴらさん」と呼ばれて親しまれています。ちなみに「金毘羅船々」は「廻れば四国は讃州(さんしゅう)那珂(なか)の郡(ごおり)象頭山(ぞうずさん)金毘羅大権現...」と続きます。

 

「四国の道は金毘羅に通ず」と言われるほど、四国各地から金刀比羅宮に通じる街道がありました。これらを総称して「金毘羅街道」と呼んでいました。各地の金毘羅街道が整備されたのは、これもまた江戸時代のことです。金刀比羅宮に祀られている金毘羅大権現は昔から海上交通の守り神として民衆の間で広く信仰されており、特に江戸時代に入ってからは高松藩松平家の手厚い保護もあって、全国各地から多くの参詣客が金毘羅参りに訪れるようになりました。

 

それぞれの金毘羅街道には灯籠や丁石(ちょういし)が設置され、宿場も大いに賑わっていたようです。数ある金毘羅街道の中でも特に参詣客が多かった道として、「高松街道」、「丸亀街道」、「多度津街道」、「阿波街道」、「伊予・土佐街道」があり、「金毘羅五街道」と呼ばれています。もちろん、この金毘羅五街道以外にも金毘羅街道は多くあり、「金毘羅往来」とも称されています。

 

金毘羅五街道のうち、高松街道は別名「琴平街道」、「高松金毘羅街道」などとも呼ばれ、高松城(玉藻城)と讃岐国各地を結ぶ高松藩の「讃岐五街道」の一つとされています。高松城外堀に架けられていた常盤橋を起点に、栗林から円坐、畑田、滝宮、栗熊、岡田、榎井などを経て琴平に至る8里(約31キロメートル)の道程で、高松藩主松平家の御成道として整備が進められました。

 

丸亀街道は、丸亀港から丸亀城西側の中府、郡屋、与北を経て琴平に至る道です。陸路としての距離が比較的短く、平坦な道であったことから備前国(岡山県)や大坂など上方以東から金毘羅船でやってきた参詣客が丸亀港に上陸し、金刀比羅宮を目指しました。延享年間(1744年~1748年)に大坂と丸亀を結ぶ定期船が就航してからは更に参詣客が増して、数ある金毘羅街道のうちで最も賑わったといわれています。ちなみに丸亀は金毘羅土産の団扇の産地として知られています。

 

多度津街道は、丸亀港の西側にある多度津港から善通寺、生野、大麻を経て琴平に至る道です。多度津港には主に西国・九州や中国、北陸など日本海側の人たちが北前船で来訪し、上陸したようです。天保年間(1831年~1845年)に多度津藩が多度津港の大改修を行ってからは、丸亀街道を凌ぐ賑わいを見せたといわれています。

 

阿波街道は、阿波国(徳島県)から四国山地の一つである讃岐山脈(阿讃山脈)を越えて琴平に至る道で、阿波と讃岐を結ぶ街道はいくつか存在していたようです。中でも阿波池田(徳島県三好市)から猪ノ鼻峠を越えて財田、樅の木峠などを経て琴平に至る街道は「阿波別街道」と呼ばれ、貞光(徳島県つるぎ町)から三頭峠を越えて久保谷、造田、四条等を経て琴平に至る街道とともによく知られています。

 

伊予・土佐街道は、伊予国(愛媛県)から燧灘(うちひなだ)沿いに豊浜、豊浜から内陸を進んで伊予見峠を経て琴平の牛屋口に至る道です。伊予からの参詣客のほか、土佐街道を通ってやってくる土佐(高知)からの参詣客も大いに利用していたようです。幕末には坂本竜馬などの歴史上の人物もこの街道を利用したといわれています。街道沿いに多く見られる石灯籠は伊予や土佐をはじめとする全国の信者からの寄進によるものだそうです。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日は急用で瓦版の更新ができず、失礼しました。新年度事業も準備期間が過ぎ、いよいよ本格的に動き出し、私としてもますます忙しくなりそうです。来週火曜日21日からは北京出張、再来週水曜日29日からは東北宮城県仙台出張、来月10日からは再度北京出張と目まぐるしい勢いで外での活動が増えてきます。今日も朝から中国政府・国務院参事室一行の表敬を受け、午後は経済産業省での会議と、日中両政府絡みの事業が続きます。

さて、本日は中国地方のその他の脇街道について紹介してみたいと思います。畿内と中国地方を結ぶ大きな街道として西国街道(山陽道)と山陰道について紹介したところですが、この西国街道と山陰道を結ぶ重要なルートがいくつかあるので、ここで主なものを紹介しておきましょう。

 

先ずは「因幡街道」です。因幡街道は、播磨国(兵庫県南西部)姫路と因幡国(鳥取県東部)鳥取を結ぶ道のことで、主に二つのルートがありました。その一つは鳥取から智頭(ちずかい)を経て使戸坂峠(しどざかとうげ)を越えて山陽道に至る「智頭街道(智頭往来)」です。このルートは鳥取藩の参勤交代にも使われ「上方往来」とも呼ばれていました。もう一つのルートは鳥取から若桜(わかさ)を経て戸倉峠を越えて姫路に至る「若桜街道(若桜往来)」です。この道は因幡国八東(はっとう)地域を通ることから「八東往来」とも呼ばれていました。

 

次は「出雲街道」です。出雲街道は播磨国姫路と出雲国(島根県東部)松江を結ぶ街道で、「出雲往来」、「雲州(うんしゅう)街道」とも呼ばれています。姫路から三日月宿(兵庫県佐用町)、津山宿(岡山県津山市)、美甘宿(岡山県真庭市)、二部宿・溝口宿(鳥取県伯耆町)を経て米子宿(鳥取県米子市)を通って松江に至ります。出雲大社への参詣や出雲からの上洛の道として昔から利用されていました。松江藩松平氏の参勤交代にも使われました。出雲街道としては、これとは別に「石見銀山街道」の備後国尾道(広島県尾道市)から出雲、石見、備後の3国の国境にある赤名(島根県飯南町)までのルートや、これに備後国三次(みよし)〔広島県三次市〕で接続する広島方面のルートを出雲街道と呼ぶこともあるそうです。

 

続いて「石見銀山街道」です。石見銀山街道は、石見銀山のある石見国(島根県西部)大森(島根県大田市)から日本海側の鞆ヶ浦(ともがうら)、或いは温泉津(ゆのつ)の沖泊(おきどまり)までと、瀬戸内側の尾道、或いはその途中の備後国宇賀(三次市)で分岐して備後国笠岡(岡山県笠岡市)まで、石見銀山で採掘された銀を輸送することを目的として整備されました。鞆ヶ浦までの道を「鞆ヶ浦道」、沖泊までの道を「温泉津沖泊道」、尾道までを「尾道道」、笠岡までを「笠岡道」とそれぞれ呼んでいました。日本海側へのルートは、江戸時代以前にもあり銀の運び出しに利用されていましたが、冬の日本海は季節風が強く、銀を運び出す船の運行に支障が出ていたことから、江戸時代以降、江戸幕府は石見銀山を直轄領とし、瀬戸内側への街道が整備され、尾道や笠岡が銀の積出港として重要な役割を果たすようになりました。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日の雨日和から一転、今朝の東京は太陽が眩しく感じます。5月6日の立夏も過ぎ、暦の上では夏といいたいところですが、実際に我が職場ではすでにクールビズとなっており、暦だけでなく実際に夏に突入したかのような陽気です。

 

さて、本日は「山陰道(さんいん)」について紹介していきたいと思います。山陰道もまた東海道や山陽道と同じように、律令制における五畿七道の行政区分の一つの地域を示します。丹波(たんば)、丹後(たんご)、但馬(たじま)、因幡(いなば)、伯耆(ほうき)、出雲、石見、隠岐の8カ国で、このうち丹後は和銅6年(713年)に丹波より分立しました。現在の京都府と兵庫県の北部、鳥取県、島根県、山口県を結ぶ地域です。また、畿内からこの地域を縦貫する街道のことも山陰道と呼んでいました。

 

山陰道は、「さんおんどう/せんおんどう/せんいんどう」などとも発音されるほか、「そのものみち」〔『西宮記(さいぐうき)』〕や「かげとものみち」(『日本書紀』天武下訓)とも呼ばれており、丹波山地及び中国山地の北斜面、現在の中国地方の日本海側を示す言葉になっています。「陽」と「陰」という概念は、もともと中国に由来しており、中国では山の南側或いは河の北側を「陽」と表し、山の北側或いは河の南側を「陰」と表す言葉として使われています。中国地方の日本海側は丹波山地や中国山地の北側ですから山の陰、山陰道となるわけです。中国の地名で皆さんご存知の「洛陽」は、洛水という川の北側にある地域ということで、その名が付けられているのです。

 

山陰道の成立時期は、正直なところよく分かっていません。『日本書記』天武下訓に「巨勢朝臣粟持を山陰道(かげとものみち)の使者とす」とあることから、天武朝末年頃にはすでに山陰道があったのではないかと考えられます。

 

街道としての山陰道は、京都で北陸道とつながり、京都丹波口から亀山、福知山、丹波山地を越えて和田山で日本海側に出ます。その後、日本海沿いを西に向かい、鳥取、米子、松江、出雲、浜田、萩を経て海岸沿いに下関に出ます。その距離は700キロメートル以上。別名として「山陰街道」、「丹波海道」、「丹波路」などとも呼ばれていました。

 

律令制度の下では、山陰道は小路であり、大路であった山陽道に比べ街道としての重要性は低くみられていました。その理由は、山陽道が京都と九州の大宰府を平坦な道で結んでいたのに対し、山陰道は冬季の風雪が厳しく、山道や難所が多くて、街道沿線の宿場の発展が遅れていたからです。それでも出雲大社への参詣路として利用されたり、山陰地方の大名の参勤交代の道路として使われていました。しかし参勤交代では、山陰道を利用したとしてもそれは一部で、途中、出雲街道や智頭(ちづかい)街道を使って中国地方を横断し、山陽道から江戸に向かうことが多かったようです。

 

高見澤


おはようございます。

 

さて、本日は「北陸道」について紹介したいと思います。北陸道もまた行政区分の五機七道の一つとして定められた地域で、東海道や山陽道と同じようにそこを通る街道を示す呼称でもありました。北陸道は、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡の7カ国を指します。現在の福井県、富山県、石川県、新潟県にまたがる北陸地域です。

 

古来畿内から日本海沿岸に及ぶ地域は「越(こし)」と呼ばれ、乙巳の変〔大化元年(645年)〕後に越前国、越中国、越後国に分かれ、その際に若狭国と佐渡国ができて北陸道に加わりました。和銅元年(708年)、越後国から出羽国が分かれて東山道に属し、養老2年(718年)に能登国、弘仁14年(823年)に加賀国の両国がそれぞれ越前国から分立しました。こうして北陸道7カ国が誕生しました。

 

古代三関(さんげん/さんかん)の一つとされる越前「愛発関(あらちのせき)」より東の7カ国を縦貫する街道を、古くは「北道(きたのみち)」、「こしのみち」、「陸道(くぬがのみち/くにがのみち/くるがのみち)」などとも呼ばれ、律令制度の下では小路として駅ごとに駅馬5頭が備えられていました。この地域は日本海側にあり、シベリア寒気団が山脈にぶつかることで大雪となる雪国として知られる地方です。

 

鎌倉時代に親鸞が越後国直江津(現在の新潟県上越市)に流刑されて以来、この地域は浄土真宗の地盤となり、加賀の一向一揆をはじめとする仏教勢力が支配を広げていきます。戦国時代には、越後の長尾氏、越中の神保氏と椎名氏、能登の畠山氏、加賀の一向宗勢力、越前の朝倉氏などによって支配され、織田信長の死後は上杉景勝、佐々成政、前田利家、柴田勝家などの武将の本拠地となりました。




江戸時代以降、幕藩体制が敷かれると越中国は能登国とともに加賀前田藩の直接的・間接的支配下に置かれます。「加賀百万石」と呼ばれる前田氏の加賀藩をはじめ、前田氏の分家にあたる富山藩、越前松平氏の福井藩、牧野氏の長岡藩などがこの北陸道を治めるようになりました。幕末には新潟港が開港五港の一つとなり、町が栄えるようになりました。

このような北陸の地と畿内とを結ぶ街道が北陸道です。北陸道は江戸時代には「北国街道」とも称されていました。その北端は、当初は直江津でしたが後に延伸されて渟足柵(ぬたりのき/ぬたりのさく)〔現在の新潟市〕となり、更に出羽国鼠ケ関(ねずみがせき)〔現在の山形県鶴岡市〕まで延伸されます。また、鼠ケ関から更に北に向かう道も北国街道と呼ばれることもあります。以前この瓦版で紹介した中山道追分から分岐して、信州善光寺(長野市)を通り直江津に通じる「善光寺街道」も北国街道と呼ばれますが、これは北陸道とは別の街道です。

 

高見澤

 

おはようございます。先週末に米国トランプ大統領が突然発表した中国からの輸入製品に対する追加関税措置が、米国時間で本日午前零時から発動されようとしています。今週の世界株式市場での株価の大幅下落はこのニュースを受けてのもので、現在、米国を訪れている中国の劉鶴副総理による米国政府との協議の結果によっては、追加関税措置が見送られる可能性もないわけではありません。米中貿易摩擦の日本経済への直接的影響はそれほど大きくはないものの、間接的には少しずつですが日本企業の業績を圧迫し始めているようです。今のところ、米中協議の結果が伝わってきていませんが、今回の措置は規模が大きいだけに、政財界・学界ともに注目しているところです。

 

さて、本日は「西国(さいごく/さいこく/せいごく/せいこく)街道」について紹介したいと思います。西国街道は江戸時代における脇街道の一つで、別名「山陽道」、「山陽路」、「西国往還」、「西国道」、「西国路」、「中国街道」、「中国路」などとも呼ばれていました。山陽道といえば、以前紹介した古代の行政区分である五機七道の一つで、播磨(はりま)、美作(みまさか)、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)、備後(びんご)、安芸(あき)、周防(すぼう)、長門(ながと)の国々を指し、それらの国を通る幹線道路も山陽道と称していました。現在でいえば兵庫県、岡山県、広島県、山口県です。律令時代には、山陽道は畿内と九州地方を結ぶ重要な「大路」として位置付けられていたことは、以前紹介した通りです。

 

江戸時代において、西国街道として整備されていたのは京都の羅城門(東寺口)から長門国赤間関(あかまがせき、現在の山口県下関市)に至る道で、東海道の延長線上に脇街道として位置付けられていました。また、赤間関から関門海峡を抜けて小倉へ通じる道でもあることから、江戸と長崎を結ぶ幹線道路としても重要な役割を果たしていました。寛永10年(1633年)の幕府巡視使の視察や寛永12年(1635年)から始まる参勤交代制度を確立させる意味でも欠かせない街道でした。

 

この京都から赤間関まで通じる西国街道は、総延長576キロメートルにも及びます。このうち、京都から西宮までの6宿(山崎宿、芥川宿、郡山宿、瀬川宿、昆陽宿、西宮宿)を「山崎街道(やまさきかいどう)」、「山崎路(やまさきじ)」、「山崎通(やまさきのみち)」と呼び、狭義の意味での西国街道を指し、西宮以西を山陽街道とすることもあります。この山崎街道は、大坂を経由せずに西国と東海道を結ぶことから、三国大名の参勤交代にも利用されていました。また、山崎街道とは別に、以前東海道のところで解説した京都と大坂を結ぶ「京街道(大坂街道)」や、大坂と西宮を結ぶ「浜街道(はまかいどう)」などもあり、浜街道は狭義の意味での「中国街道(中国路、中国道)」とも呼ばれていました。

 

西宮以西から赤間関までを西国街道とすることもあります。播磨の打出(芦屋)から生田神社(神戸元町)の南まで、街道は南北に山側と海側の二手に分かれており、山側のルートを「西国本街道」、海側のルートを「西国浜街道」と呼んでいました。街道の幅は二間半(約4.5メートル)と定められ整備されていきました。

 

幕末、兵庫港の開港に伴い、大名行列と外国人との衝突を避けるため、石屋川(神戸市東灘区)から大蔵谷(明石市)までの間を、六甲山中を抜けて迂回する「西国往還付替道」が開削されます。この道が開通したのは兵庫港開港と同じ日の慶応3年(1867年)12月7日のことで、全長約33キロメートルでした。この道が開通した3カ月後の慶応4年(1868年)3月に外国人居留地を迂回する別の道が設けられ、この道は廃れていきましたが、近年、六甲山系摩耶山登山道として再整備されているとのこと。この道を地元では「徳川道」と呼んでいるそうです。江戸時代に整備された道が、現代に甦って新たな役割を果たすようになる。「故きを温ね新しきを知る」ことの大切さを知らしめるよい例だと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日、滋賀県大津市で2人の幼い保育園児が亡くなる痛ましい交通事故が起きました。他にもまだ意識不明の園児や多数の怪我人が出ているようで、事故に遭った本人や家族の心境を考えると言葉も出てきません。最近この手の事故が多く、容疑者からは「ボーとしていて前をよく見ていなかった」との話が伝わってきます。最近は機会も大分減りましたが、それでも時々は自分でハンドルを握ることもあるので、こうした事故のニュースを見るたびに、自分が凶器を運転しているという意識を改めて惹起するようにしています。走っている車は刃物と同じように、少しかすっただけでも大けがに至ることがあります。運転中にボーっとするようなことがあれば、それはもう運転する資格はありません。そのことを、肝に命じておく必要があります。

 

さて、本日は「高野街道」について紹介したいと思います。高野街道は、京や大坂から高野山への参詣道として利用された街道の総称ですが、狭い意味では河内国錦部郡長野村(現在の大阪府河内長野市)から紀見峠(きみとうげ)を越えて紀伊国伊都郡橋本町(現在の和歌山県橋本市)を結ぶ街道を指します。総称としての高野街道としては、各方面から河内長野まで結ぶ道と、橋本から高野山を結ぶ道があります。

 

河内長野から橋本を結ぶ高野街道は、現在の国道371号線の旧々道に当たるそうで、長野から烏帽子形城、三日市にかけては歴史ある街並みが残されて観光ルートとして整備されています。河内長野で4本の高野街道が合流することから、河内長野は古くから宿場町として栄えていました。

 

各地から河内長野に至る4本の高野街道とは「東高野街道」、「中高野街道」、「下高野街道」、「西高野街道」のことです。このうち一番東の街道筋である東高野街道は、山城国(京都)の八幡で京街道(大坂街道)から分岐し、河内国東部を通って長野村(河内長野市)で西高野街道と合流する道です。元々は平安京または長岡京への官道として利用されていたようですが、次第に京都から高野山への参詣道として利用されるようになりました。河内国を南北に貫く数少ない道でした。

 

中高野街道は、摂津国平野郷(大阪市平野区)にある杭全(くまた)神社西の泥堂口(でいどうぐち)にあった一里塚を起点に、河内国三宅村(松原市)、黒山村(堺市美原区)、狭山新宿(大阪狭山市)を通って市村(河内長野市)で西高野街道に合流する街道です。久安4年(1148年)、真言宗仁和寺宮(にんなじぐう)覚法法親王(かくほうほうしんのう)が高野山参詣の際にこの街道を通ったとされています。

 

下高野街道は、摂津国天王寺村(大阪市天王寺区)を起点に、途中「庚申街道(こうしんかいどう)」と合流し、河内国高木村(松原市)、小寺村(堺市美原区)、岩室村(大阪狭山市)で西高野街道に合流する街道です。旧街道筋の大和側に下高野橋が架かっています。

 

西高野街道は、和泉国堺(堺市堺区)大小路を起点に、中村筋を過ぎて竹内街道と分岐して南東に進み、河内国関茶屋新田(堺市東区)、和泉国福田村(堺市中区)、河内国岩室村(大阪狭山市)を過ぎて下高野街道と合流し、茱萸木新田(くみのきしんでん、大阪狭山市)を通り市村で中高野街道に合流、更に長野村で東高野街道と合流して、橋本に向かう高野街道へとつながっていきます。この街道は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけては高野参詣道として使用されていたと考えられています。室町時代から江戸時代には、商港であった堺と高野山を結ぶ物資輸送の道として賑わっていました。元和元年(1615年)の「大坂夏の陣」の際に灰燼に帰した大坂の町を、碁盤目状に街路を整備した「元和の町割り」以降、堺においては目口筋或いは一筋北の大小路とつながっていました。

 

河内長野からは橋本までは狭い意味での高野街道を通り、橋本からは高野山までは、①慈尊院(九度山)、天野辻、笠松峠、笠木峠を越えて高野山大門(高野町)に至る「町石道」、②橋本から河根村(九度山)、不動坂を通り高野山女人堂(高野町)に至る「京大坂道」、③橋本から三谷村(かつらぎ)、笠松峠、笠木峠を越えて高野山大門に至る「勅使坂」、④橋本から明神ヶ田和、わらん谷の赤石、市平橋(九度山)、市平春日社の大カツラ、黒河峠を越えて高野山奥之院(高野町)に至るルートがあります。

 

高野街道のうち、町石道が2004年に紀伊山地の霊場と参詣道の構成資産として世界遺産に登録され、その後2016年に京大坂道の不動坂と黒河道が追加登録されています。登録名称は高野街道ではなく、「高野参詣道」となっています。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日のニューヨーク市場でのダウ平均株価が前日比で一時600ドル超の大幅下落となり、終値でも473ドル39セント安い25,965ドル9セントとなりました。昨日の東京市場でも日経平均株価が1カ月ぶりに2万2,000円を割る事態になっています。これは米国トランプ大統領が、急遽対中輸入関税の引き上げを発表し、米中貿易摩擦への懸念が再燃したことで、売り注文が出たことによるものということです。この事態を受け、中国の劉鶴副総理が明日から訪米するようですが、この米中対立がこの先どうなるのか、私の仕事と直結することもあり、気になるところです。

 

さて、本日は「大和の古道(やまとのこどう)」について紹介したいと思います。大和の古道とは、読んで字の如く、大和地方(現在の奈良県)を貫く古来からの街道です。これらの道は飛鳥・奈良時代にすでに作られていたものです。大和の古道には、主に次のような道があります。

 

「山辺の道(やまのべのみち)」

山辺の道は、奈良盆地の東南にある三輪山の麓から東北部の若草山に並んでいる春日山の麓まで、盆地の東端を山々の裾を縫うように南北を通る道です。『日本書紀』や『古事記』などの記録から、古墳時代の初期、4世紀頃にはすでに整備されていたと考えられ、現存する日本最古の道として知られています。

 

「上ツ道(かみつみち)」

上ツ道は、奈良盆地の中央より東側を南北に貫く三本の道のうち、最も東側を通る道です。この三本の道は、ほぼ4里(約2.12キロメートル)の等間隔に置かれており、東から上ツ道、中ツ道、下ツ道と呼ばれています。敷設時期は、『日本書紀』などの記録から7世紀半ば頃と推定されています。上ツ道は、今の桜井市から奈良盆地の東端の山沿いを北上して、天理市を経て奈良市中部の猿沢池に至るものです。南は桜井市仁王堂で横大路と交わり、その先は山田道を経て飛鳥に通じています。また天理市の櫟本(いちのもと)で「北の横大路」とも交わっています。当初は官道として使われていましたが、平安時代以降は仏教信仰の広まりとともに、寺院への参拝道として賑わうようになりました。江戸時代には、「上街道(かみかいどう)」と呼ばれ、伊勢街道の一つとして機能していました。

 

「中ツ道(なかつみち)」

中ツ道は、上ツ道と下ツ道の間を南北に平行に走る道です。橿原市の天香具山北麓から奈良市北之庄町に至る直線道で、南は藤原京(現在の橿原市)の東京極、北は平城京(現在の奈良市)の東京極となっていました。更に南は香具山を迂回して橘寺(たちばなでら)へ至ることから、江戸時代には「橘街道(たちばなかいどう)」と呼ばれていました。平安時代には吉野詣で賑わっていたようです。

 

「下ツ道(しもつみち)」

下ツ道は、藤原京の西京極から奈良盆地の中央部を北上し、平城京の朱雀大路となる道です。道幅は、道の両側にある側溝の中心間で22.7メートルとなっています。起点は見瀬山古墳の前面、藤原京の西四坊大路(橿原市八木辺り)から奈良盆地の中央を真っ直ぐ北に進みます。北は那羅山(ならやま、平城山)の平坂(ならさか)を越えて山背道(やましろのみち)になり、南は軽(かる、橿原市大軽町)の丸山古墳(旧見瀬丸山古墳)までが直線路で、檜隈(ひのくま、檜前、現在の明日香村)からは西南に向かう巨勢道(こせじ、現在の奈良県御所市古瀬に向かう道)となり、宇智(うち、現在の奈良県五條市)を経て紀伊国との境にある真土山を越えると、紀の川沿いの木道(きのみち)に達します。奈良時代には飛鳥・藤原京と平城京を繋ぐ大道として盛んに利用されていましたが、平安京遷都後は次第に衰退していきます。江戸時代以降、奈良から櫟本、丹波を経て桜井に至る道が「上街道」、郡山から高田に至る道が「下街道」と呼ばれていたのに対し、その間を通る下ツ道は「中街道」と呼ばれるようになりました。中世以降、中街道は奈良の西から八木(橿原市)、古瀬(御所市)を経て北宇智(五条市)を下街道と合流する道筋となります。

 

「横大路(よこおおじ)」

横大路は、奈良盆地を東西に貫く古代からの道です。奈良盆地の南部の藤原京付近を通っていた道と、法隆寺付近から現在の天理市櫟本付近までを通る道があり、通常は前者を指し、後者は「北の横大路」と呼ばれています。前者の横大路は、桜井市の三輪山の南から葛城市の二上山付近まで真っ直ぐ東西に伸びており、難波京と飛鳥京を結ぶ官道として整備された街道です。この道は、東は伊勢街道(伊勢本街道)、初瀬街道につながり伊勢国に、西は竹内街道につながり和泉国に至ります。江戸時代には、伊勢神宮への参詣道として賑わっていました。

これに対し北の横大路は、斑鳩町の法隆寺付近から天理市の櫟本まで真っ直ぐ東西に通じる道で、西側で竜田越奈良街道(たつたごえならかいどう)につながります。平安時代初期の歌人、在原業平が大和国と河内国を行き来した際にこの道を通ったことから、別名「業平道(なりひらみち)」とも呼ばれています。

 

「筋違道(すじかいみち)」

筋違道は、斑鳩の法隆寺付近から飛鳥宮(明日香)へほぼ一直線に結んでいたとされる官道です。北北西から南南東方向に、南北に約20度傾いて設置されていたことから筋違道、或いは「斜行道(しゃこうどう)」と呼ばれていました。また、聖徳太子が行き来したとも言われ、「太子道」という呼び方もされています。大和の古道の他の東西南北に通る道が飛鳥時代後期に計画的に整備されたものであるのに対し、筋違道はその沿線上に弥生時代や古墳時代にかけての遺跡が多数発見されていることから、そのころには部分的に既に道があり、飛鳥時代に他の大道とともに延長・整備し直したものと考えられています。この街道も他の道と同様に、平安京遷都後は官道としての役割は衰退し、道幅は狭く直線的ではなくなりました。そして、やがて「法隆寺街道」とも呼ばれるようになりました。

 

高見澤

 

おはようございます。令和最初の瓦版をお送りします。10連休の方もいるかと思いますが、この連休はどのように過ごされましたか? 私はといえば、仕事があった関係で、29日に江ノ島海岸の散策とランチ、5日に人形町界隈の散策とスカイツリー近くでのディナーを家族で過ごしただけで、残りは家でパソコン・資料とにらめっこの日々でした。江ノ島では、中国国歌の「義勇軍行進曲」の作曲者・聶耳(じょうじ、Nie Er)が江ノ島・鵠沼(くげぬま)海岸で遊泳中に帰らぬ人となったということで、それを悼んで碑が建てられています。ちょっとした散策でしたが、新たな発見などもあり、それなりに楽しめました。

 

さて、これまで五街道とそれに通じる主な脇街道を紹介してきました。本日から暫くの間は、その他の主要な脇街道について紹介していきたいと思います。本日は、伊勢神宮に通じる信仰の道、「伊勢参宮街道(いせさんぐうかいどう)」と「伊勢路(いせじ)」について説明したいと思います。

 

川柳にも「伊勢参宮大神宮にもちょっと寄り」とあるように、江戸時代の庶民にとって長旅は一生に一度あるかないかの物見遊山の旅で、お伊勢参りを名目に伊勢神宮にはちょこっと顔を出すだけで、できるだけ多くの場所を散策しようということだったのでしょう。ですから、各地から伊勢に向かう街道が整備されていたのは、いうまでもありません。

 

先ずは伊勢参宮街道です。この街道は、日本の各方面から伊勢神宮への参拝道として整備された街道です。「伊勢街道」、「伊勢本街道」、「参宮街道」とも呼ばれる街道です。

 

東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿の「間の宿(あいのしゅく、宿泊が禁止されていた休憩場所)」である「日永(ひなが)の追分」で東海道から分岐し、白子、津、六軒、松阪、斎宮を通って伊勢に至る街道は、一般に伊勢街道と呼ばれています。その距離は18里(約72キロメートル)、江戸幕府によって脇街道として整備された街道です。

 

大坂の玉造稲荷神社(大阪市中央区)を起点として、暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)、上ツ道(かみつみち)、初瀬街道を経て六軒で伊勢街道に合流する道があります。大坂玉造稲荷から伊勢神宮内宮までの距離は42里半(約170キロメートル)で、暗越奈良街道は生駒山脈の南側、標高455メートルの暗峠(くらがりとうげ)を越えて大坂と奈良を最短距離の8里8町(約34キロメートル)で結ぶ古くからの道です。豊臣時代に整備され、江戸時代には旅人や物資が行き交う大動脈でした。奈良からは南にまっすぐ伸びる上ツ道(上街道)を通り、箸墓(はしはか)古墳、三輪大神(みわおおみや)を経て初瀬街道に入ります。その後、奈良桜井の長谷寺門前から初瀬街道と分かれ、大宇陀(宇陀市)経由で通って伊勢本街道に入って青山峠などいくつかの峠を越える山道で、六軒(松阪市)で伊勢街道に合流します。参宮街道とも呼ばれています。

 

伊勢参宮街道が各地から伊勢神宮に至る道であるのに対し、伊勢路は伊勢国の伊勢神宮と南紀の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の二大聖地を結ぶ街道で、「熊野参詣道」であり、いわゆる「熊野古道」の一つです。伊勢神宮から熊野速玉大社まで42里半(約170キロメートル)、「伊勢へ七度、熊野へ三度」といわれるように古くから信仰の路、祈りの路として利用され、十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』にも登場してきます。熊野三山へは、紀伊路など和歌山県側の古道が貴族に多く利用されてきたのに対し、伊勢路は主に庶民が利用する道でした。

 

志摩磯部地域から伊勢市に通じる「磯部街道」、鳥羽市から伊勢市中村町に通じる「鳥羽街道」を伊勢路と呼ぶこともあるようです。

 

高見澤

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