東藝術倶楽部瓦版 20190513:畿内と北陸を結ぶ脇街道-「北陸道」


おはようございます。

 

さて、本日は「北陸道」について紹介したいと思います。北陸道もまた行政区分の五機七道の一つとして定められた地域で、東海道や山陽道と同じようにそこを通る街道を示す呼称でもありました。北陸道は、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡の7カ国を指します。現在の福井県、富山県、石川県、新潟県にまたがる北陸地域です。

 

古来畿内から日本海沿岸に及ぶ地域は「越(こし)」と呼ばれ、乙巳の変〔大化元年(645年)〕後に越前国、越中国、越後国に分かれ、その際に若狭国と佐渡国ができて北陸道に加わりました。和銅元年(708年)、越後国から出羽国が分かれて東山道に属し、養老2年(718年)に能登国、弘仁14年(823年)に加賀国の両国がそれぞれ越前国から分立しました。こうして北陸道7カ国が誕生しました。

 

古代三関(さんげん/さんかん)の一つとされる越前「愛発関(あらちのせき)」より東の7カ国を縦貫する街道を、古くは「北道(きたのみち)」、「こしのみち」、「陸道(くぬがのみち/くにがのみち/くるがのみち)」などとも呼ばれ、律令制度の下では小路として駅ごとに駅馬5頭が備えられていました。この地域は日本海側にあり、シベリア寒気団が山脈にぶつかることで大雪となる雪国として知られる地方です。

 

鎌倉時代に親鸞が越後国直江津(現在の新潟県上越市)に流刑されて以来、この地域は浄土真宗の地盤となり、加賀の一向一揆をはじめとする仏教勢力が支配を広げていきます。戦国時代には、越後の長尾氏、越中の神保氏と椎名氏、能登の畠山氏、加賀の一向宗勢力、越前の朝倉氏などによって支配され、織田信長の死後は上杉景勝、佐々成政、前田利家、柴田勝家などの武将の本拠地となりました。




江戸時代以降、幕藩体制が敷かれると越中国は能登国とともに加賀前田藩の直接的・間接的支配下に置かれます。「加賀百万石」と呼ばれる前田氏の加賀藩をはじめ、前田氏の分家にあたる富山藩、越前松平氏の福井藩、牧野氏の長岡藩などがこの北陸道を治めるようになりました。幕末には新潟港が開港五港の一つとなり、町が栄えるようになりました。

このような北陸の地と畿内とを結ぶ街道が北陸道です。北陸道は江戸時代には「北国街道」とも称されていました。その北端は、当初は直江津でしたが後に延伸されて渟足柵(ぬたりのき/ぬたりのさく)〔現在の新潟市〕となり、更に出羽国鼠ケ関(ねずみがせき)〔現在の山形県鶴岡市〕まで延伸されます。また、鼠ケ関から更に北に向かう道も北国街道と呼ばれることもあります。以前この瓦版で紹介した中山道追分から分岐して、信州善光寺(長野市)を通り直江津に通じる「善光寺街道」も北国街道と呼ばれますが、これは北陸道とは別の街道です。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年5月13日 19:39に書いたブログ記事です。

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