東藝術倶楽部瓦版 20190515:風雪厳しく難所多き出雲への参詣路-「山陰道」

 

おはようございます。昨日の雨日和から一転、今朝の東京は太陽が眩しく感じます。5月6日の立夏も過ぎ、暦の上では夏といいたいところですが、実際に我が職場ではすでにクールビズとなっており、暦だけでなく実際に夏に突入したかのような陽気です。

 

さて、本日は「山陰道(さんいん)」について紹介していきたいと思います。山陰道もまた東海道や山陽道と同じように、律令制における五畿七道の行政区分の一つの地域を示します。丹波(たんば)、丹後(たんご)、但馬(たじま)、因幡(いなば)、伯耆(ほうき)、出雲、石見、隠岐の8カ国で、このうち丹後は和銅6年(713年)に丹波より分立しました。現在の京都府と兵庫県の北部、鳥取県、島根県、山口県を結ぶ地域です。また、畿内からこの地域を縦貫する街道のことも山陰道と呼んでいました。

 

山陰道は、「さんおんどう/せんおんどう/せんいんどう」などとも発音されるほか、「そのものみち」〔『西宮記(さいぐうき)』〕や「かげとものみち」(『日本書紀』天武下訓)とも呼ばれており、丹波山地及び中国山地の北斜面、現在の中国地方の日本海側を示す言葉になっています。「陽」と「陰」という概念は、もともと中国に由来しており、中国では山の南側或いは河の北側を「陽」と表し、山の北側或いは河の南側を「陰」と表す言葉として使われています。中国地方の日本海側は丹波山地や中国山地の北側ですから山の陰、山陰道となるわけです。中国の地名で皆さんご存知の「洛陽」は、洛水という川の北側にある地域ということで、その名が付けられているのです。

 

山陰道の成立時期は、正直なところよく分かっていません。『日本書記』天武下訓に「巨勢朝臣粟持を山陰道(かげとものみち)の使者とす」とあることから、天武朝末年頃にはすでに山陰道があったのではないかと考えられます。

 

街道としての山陰道は、京都で北陸道とつながり、京都丹波口から亀山、福知山、丹波山地を越えて和田山で日本海側に出ます。その後、日本海沿いを西に向かい、鳥取、米子、松江、出雲、浜田、萩を経て海岸沿いに下関に出ます。その距離は700キロメートル以上。別名として「山陰街道」、「丹波海道」、「丹波路」などとも呼ばれていました。

 

律令制度の下では、山陰道は小路であり、大路であった山陽道に比べ街道としての重要性は低くみられていました。その理由は、山陽道が京都と九州の大宰府を平坦な道で結んでいたのに対し、山陰道は冬季の風雪が厳しく、山道や難所が多くて、街道沿線の宿場の発展が遅れていたからです。それでも出雲大社への参詣路として利用されたり、山陰地方の大名の参勤交代の道路として使われていました。しかし参勤交代では、山陰道を利用したとしてもそれは一部で、途中、出雲街道や智頭(ちづかい)街道を使って中国地方を横断し、山陽道から江戸に向かうことが多かったようです。

 

高見澤