東藝術倶楽部瓦版 20190603:海外の物資や文化を運ぶ「長崎街道」

 

なりそうです。

 

さて、これまで讃岐、阿波、土佐と四国の街道が続いてきたので、今度は「伊予街道」か...と思う人もいると思いますが、本日は九州に飛んで「長崎街道」に話を移したいと思います。というのも、伊予国から讃岐国、阿波国、土佐国に通じる街道のほとんどは、伊予国に向かう側からみれは伊予街道になるから、改めて説明する必要はないし、強いて一言付け加えておけば、阿波五街道のところで紹介した徳島市から愛媛県一之江市まで吉野川沿いに至る国道192号線(192号線の場合は愛媛県西条市まで)が、一般には伊予街道とされています。

 

長崎街道は、道中奉行の管轄下にあった九州にある脇街道の一つで、九州北端の豊前(ぶぜん)国小倉〔福岡県北九州市〕から西北端の肥前(ひぜん)国長崎に至る街道です。その距離は57里(約228キロメートル)、25宿で6~7日を要する旅であったとのことです。

 

小倉常盤橋から黒崎で筑前国に入ります。「筑前六宿(ちくぜんむしゅく)街道」と呼ばれる黒崎宿、木屋瀬(こやのせ)宿、飯塚宿、内野(うちの)宿、山家(やまえ)宿、原田(はるだ)宿を経て、肥前国田代に至ります。この間に多くの丘陵や山地を越えなければならず、特に内野と山家の間にある冷水(ひやみず)峠が一番の難所でした。田代で「薩摩街道」と分岐し、轟木(とどろき)宿、中原(なかばる)宿、神崎(かんざき)宿、堺原(さかいばる)宿を経て佐賀城下に入り、牛津(うしづ)宿付近で「唐津街道」を分岐、更に北方(きたかた)宿、塩田(しおた)宿を通って嬉野(うれしの)宿に達します。ただし、享保2年(1717年)以降は北方宿から武雄(たけお)〔塚崎〕宿を経て嬉野宿に至るルートに変わり、以降塩田宿はさびれていきます。嬉野宿からは大村湾岸の彼杵(そのぎ)宿に達し、大村湾岸を南下して大村宿、諫早(いさはや)〔永昌〕宿を経て橘湾岸の矢上(やがみ)宿に至り、日見(ひみ)峠を越えて終点の長崎に着きます。これと並行して、彼杵港から時津港まで船で渡り、時津から長崎に至る海上を利用するルートも使われました。

 

江戸時代、長崎は海外貿易の唯一の拠点として、江戸幕府直轄の天領となっていました。長崎街道は、長崎から上方、江戸方面への物資の輸送のほか、参勤交代の諸大名や長崎奉行の江戸との往復に利用され、カステラや丸ぼうろ等の南蛮菓子、砂糖なども長崎街道を通じて日本全国に広まっていったことから、今では「シュガーロード」とも呼ばれています。

 

長崎に駐在していたオランダ商館の商館長の「カピタン」は、新任が着任するたびに江戸で将軍に拝謁する習慣があり、対日貿易の許可を得る返礼として献上品を贈ることが義務付けられていました。カピタンの任期は原則1年であったことから、江戸参府は頻繁に行われ、その待遇は大名と同等、総勢150200人を擁する大行列での道中だったそうです。このほか、承応3年(1654年)には長崎に渡来した明国の僧で黄檗宗(おうばくしゅう)を伝えた隠元(いんげん)が京都との往来に利用したり、享保13年(1728年)に長崎に入港したベトナム象が江戸に向かう際に利用したりするなど、長崎街道は物資のみならず、文化や学問、技術、文献などを伝える重要な役割を果たした道でした。

 

高見澤

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年6月 3日 07:54に書いたブログ記事です。

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