東藝術倶楽部瓦版 20190604:篤姫も通った「薩摩街道」

 

おはようございます。今朝の東京都心は、朝から太陽が照り付け、今日も暑くなりそうです。明後日6日は二十四節気の芒種、穀物を植える季節というわけですが、気候変動の様相が激しい今日では、この二十四節気もどこまでその意味を成すのか分からなくなってしまいます。自然との共生によって培われてきた昔の人々の季節感が、現代人の飽くなき執着によって、失われていく悲しさを感じているところです。

 

さて、本日は「薩摩街道(さつまかいどう)」について紹介したいと思います。この薩摩街道も前回の長崎街道と並び、九州おける重要な脇街道として位置付けられており、別名「鹿児島街道」とも呼ばれていました。筑前国山家(やまえ)宿〔福岡県筑前市〕を起点に薩摩国鹿児島〔鹿児島県鹿児島市〕に至る街道で、薩摩藩領では「出水筋(いずみすじ)〔西目筋、小倉筋〕」、「大口筋(おおくちすじ)」、「高岡筋〔東目筋、日向筋(ひゅうがすじ)〕」などの3つのルートがありました。

 

薩摩街道は、薩摩国から江戸に続く主要街道の一つとして整備されたもので、薩摩藩主が参勤交代に利用した道です。ただ、薩摩国から江戸までは距離が長かったこともあり、薩摩藩主の参勤交代などでは海上航路も使われていました。この街道を参勤交代に使った大名としては、薩摩藩島津氏のほか、八代(やつしろ)藩松井氏、人吉(ひとよし)藩〔肥後国南部〕相良(さがら)氏、肥後藩細川氏、柳川藩〔筑後国南部〕立花氏、久留米藩〔筑後国中部・北部〕有馬氏などの各藩がありました。

 

天正15年(1587年)に豊臣秀吉が九州平定に向けて薩摩に軍を進めた「島津征伐」の際にも、基本はこのルートを利用したとされています。

 

山家で長崎街道から分岐し、熊本宿、佐敷(さしき)宿、出水宿、伊集院宿などを通り、鹿児島城に至るルートが出水筋です。この街道は、筑紫平野から熊本平野、八代平野を抜けて八代海に出ます。その後、九州山地、国見山地、出水山地東端の山間部を通ります。出水よりは串木野(くしきの)〔鹿児島県いちき串木野市〕から薩摩半島を横断して鹿児島に至ります。その距離は約395キロメートル、起点の山家宿を除き、23の宿場がありました。府中(久留米)では、坊津(ぼうのつ)〔鹿児島県南さつま市〕に通じる道ということで「坊津街道」と呼ばれ、熊本では、熊本城を起点に薩摩に通じる道を薩摩街道、豊前小倉までの道を「豊前街道」と呼んでいます。13代将軍・徳川家定に輿入れした篤姫(天璋院)もこの出水筋を通ったそうです。

 

鹿児島から北上し、吉田を経て白金坂(しらかねざか)で薩摩国と大隅国の国境を越え、溝辺(みぞべ)、栗野〔鹿児島県湧水(ゆうすい)町〕を経て大口〔鹿児島県伊佐市〕に至るルートが大口筋です。途中、加治木(かじき)〔鹿児島県姶良(あいら)市〕で高岡筋と分岐します。大口筋は、鹿児島城下から大隅方面 (鹿児島県東部)に向かう主要道路であり、加治木から大口を経て水俣や八代に通じていました。

 

加治木で大口筋と分岐した高岡筋は、高岡(宮崎県宮崎市)を経て更に北進し、本庄(宮崎県国富町)を経由して佐土原(さどわら)〔宮崎県宮崎市〕に至るルートです。途中、高原郷〔外城(とじょう)〕に去川(さるかわ)関所が設置されていました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年6月 4日 09:37に書いたブログ記事です。

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