東藝術倶楽部瓦版 20190605:古来からの塩の道-「飯田街道」

 

おはようございます。昨日、中国の大学生訪日研修団の昼食歓送会に出席してきました。団長を務めていた中日友好協会の朱丹副秘書長をはじめ、旧知の友情を温めたほか、大学生の話も聞くことができました。そのなかで、某大手商社の方のご自宅で1泊のホームステイを経験した学生がおり、その学生は商社の方に連れられて浅草から両国まで隅田川沿いを歩き、東京大江戸博物館を見学したとのこと。浮世絵の話にも華が咲き、浮世絵の製造過程が日本のモノづくりの原点であることを説明したところ、十分に納得した感じでした。数千年という悠久の自国の歴史を誇りに思う中国人が新鮮な思いで興味を抱く浮世絵は、やはり世界に誇る日本の文化であることをあらためて噛み締めた思いです。

 

さて、本日は「飯田街道」について紹介したいと思います。飯田街道と呼ばれる道はいくつかあるようですが、ここでは江戸幕府によって整備された尾張国名古屋と信濃国飯田を結ぶ「信州飯田街道」と呼ばれる脇街道を取り上げます。

 

江戸時代、名古屋城下から東へ伸びる道筋は4本記されているようで、その起点の多くは大曽根(名古屋市北区)からとなっています。大曽根から大森(名古屋市守山区)を経て上品野村(かみしなのむら)〔愛知県瀬戸市〕に至る道は「瀬戸街道」と呼ばれ、信州飯田街道の一つとして由緒ある道とされています。信州飯田街道のもう一つの由緒ある道は大曽根から末森村(名古屋市千種区)、高針村(名古屋市名東区)、岩崎村(愛知県日進市)、岩藤、米野木(こめのき)、三本木、保見(愛知県豊田市)、猿投(さなげ)に至る道です。この他の大曽根から矢田川沿いに山口(愛知県瀬戸市)に至る道と、名古屋城下から川名(名古屋市昭和区)、植田(名古屋市天白区)、平針(名古屋市天白区)、祐福寺(愛知県東郷町)から三河国宇頭(愛知県安城市)に至る「駿河街道」と呼ばれる道もありました。

 

名古屋城下を出て信濃国飯田に続く飯田街道は、保見を経て信濃国根羽(ねば)に入り、阿智を通って飯田に至ります。この道は、信濃国側からすると三河国に通じることから「三州街道(さんしゅうかいどう)」と呼ばれていました。一方、根羽で飯田街道から分かれて南に向かい、三河国設楽(したら)、新城を経由して豊川、豊川からは船を利用して豊橋に至る道が「伊奈(伊那)街道」と呼ばれるルートです。この伊那街道は飯田街道と合流し、飯田から北上して伊那、塩尻まで続く道とされていました。

 

もう一つ、飯田街道の三河国足助(あすけ)宿から南に向かい、岡崎に至る道もありました。この道は「中馬街道(ちゅうまかいどう)」、または「足助街道」と呼ばれる街道です。「中馬」とは、江戸時代に信濃国や甲斐国などで発達した陸上の輸送手段で、宿場ごとに荷物の付け替えをせず、付け通しで荷物を運ぶ運送方法です。尾張国、三河国、遠江国から信濃国に運ぶから荷物を運ぶ場合には、この中馬の方法がとられていたことから、中馬街道と呼ばれるようになったそうです。中でも重要なのは、三河国や遠江国から信濃国へは主に塩が運ばれていたことです。三河湾でとれた塩は、矢作川水運で岡崎まで運ばれ、そこから中馬街道を通って信濃国まで運ばれていました。このため、中馬街道を含む飯田街道は、江戸時代以前から「塩の道」としても重要視されていました。ちなみに、信濃国塩尻の地名は、三河や遠江から運ばれた塩の道の終わりということがその由来といわれています。

 

この飯田街道は、中山道の脇往還としてもよく利用されていました。中山道が大名行列や日光例幣使、朝鮮信使などの「御通行」が頻繁にあり、また関所もなかったことから、庶民には飯田街道の方が通りやすかったのでしょう。現在は国道153号線が、ほぼ昔のルートを通っています。

 

高見澤

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2019年6月 5日 08:09に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20190604:篤姫も通った「薩摩街道」」です。

次のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20190606:鎌倉に続く放射状に延びた道路網-「鎌倉街道」」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ