東藝術倶楽部瓦版 20190606:鎌倉に続く放射状に延びた道路網-「鎌倉街道」

 

おはようございます。日立製作所会長で日本経団連の会長を務める中西宏明会長が、先日から検査入院していましたが、リンパ腫との診断を受け、しばらくの間治療に専念することになりました。日本経済界の各種活動にも何かと影響が出て来るものと思われます。米中貿易摩擦の世界経済への影響が懸念され、日本の役割が試されようとしているなか、日本経済界全体として難しい立場に立たされているような気がします。一日も早い回復を願うばかりです。

 

さて、本日は「鎌倉街道」について紹介していきたいと思います。そもそも古道としての鎌倉街道は、鎌倉時代に幕府が置かれていた鎌倉と各地を結んだ道路の総称で、鎌倉幕府の御家人たちが「いざ鎌倉」という有事の際に鎌倉殿(将軍)の下に駆け付けることができるように整備されたものでした。

 

鎌倉を中心として放射状に延びた道路網は、鎌倉番役を交代で奉仕していた東国15カ国(遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、上総、下総、安房、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、出羽)に渡る範囲ものと思われています。ですから、鎌倉街道といっても1本の道ではなく、たくさんの鎌倉に向かう道を指していたのです。その中でも特に重要な幹線道路として、「上道(かみつみち、かみのみち)」、「中道(なかつみち、なかのみち)」、「下道(しもつみち、しものみち)」と呼ばれる各国の国府を通る街道がありました。

 

上道は、鎌倉から武蔵、上野の国府を通り碓氷峠を越えて信濃に至る道です。中道は、東海道筋をたどる京鎌倉往還と鎌倉から甲斐とを結ぶ道、そして下野の国府を通って白河関を越える道です。下道は、常陸の国府を通って勿来(なこそ)関を越えて奥州に通じる道です。これら3本の幹線に、各所で支線が交わることになります。しかし、当時は鎌倉街道という呼称はなかったようで、この街道名が一般的に用いられるようになったのは、江戸時代以降のことだと考えられています。

 

江戸時代の文化・文政年間(1804年~1830年)に江戸幕府によって編纂された江戸及び周辺地域の地誌に、この鎌倉街道という呼称が頻用されています。この頃、江戸周辺の住民が、鎌倉街道と口伝する道があったことが分かっているようです。鎌倉街道は、「鎌倉往還」や「鎌倉道(かまくらみち)」という呼称のほか、「鎌倉海道」という表記もみられます。

 

鎌倉街道上道として定説化しているルートは、鎌倉から武蔵国西部を経て上野国に至る古道です。上野国高崎から山名(群馬県高崎市)、武蔵国奈良梨(ならなし)〔埼玉県小川町〕、笛吹峠(埼玉県鳩山町と嵐山町の境)を越えて入間(埼玉県入間市)、所沢(埼玉県所沢市)、府中(東京都府中市)、小野路(東京都町田市)、本町田、相模国瀬谷(横浜市瀬谷区)、化粧坂(けわいざか)切通しを通って鎌倉に至ります。古代律令時代の東山道武蔵路と同じような道筋になっているようですが、完全に一致するものではなく、その近くを通っていたのではないかと思われます。ただ、この道は『吾妻鏡』では下道と記録されているものです。

 

鎌倉街道中道と呼ばれていたのは、鎌倉から武蔵国東部を経て下野国に至る古道で、『吾妻鏡』にある中路を基に整備された道であると考えられています。大手中路の鎌倉口として推定されているのは、切通しである巨福呂坂(こぶくろざか)や亀ヶ谷坂(かめがやさか)、或いは二階堂(神奈川県鎌倉市)から天園(てんえん)に抜ける道です。また、武蔵国南部を経由するルートとして、巨福呂坂或いは亀ヶ谷坂を越えて戸塚(横浜市戸塚区)方面に向かい、中山(横浜市緑区)を経て武蔵国荏田宿(えだじゅく)〔横浜市青葉区〕付近から二子玉川、渋谷に続く矢倉沢往還とする説もあるようです。二子からは赤羽・古河に続くルートと考えられており、二子/赤羽間は渋谷・赤坂を経由する道と、中野を経由する道の二手に分かれていたものと考えられています。

 

鎌倉街道下道として定説化されている道筋は、鎌倉から朝夷奈(あさいな)切通しを越え、六浦(むつうら、むつら)津〔横浜市金沢区〕より房総半島に渡り、江戸湾沿いに北上して下総国府、常陸国に向かうルートです。このほか、六浦津から房総半島に渡らず、武蔵国側の江戸湾沿いを丸子、品川、浅草と北上し、松戸、柏、土浦に続く道筋とする説もあります。

 

鎌倉は、三方を山に囲まれ、南に相模湾が広がる要害の地でした。このため、鎌倉と諸国を結ぶために鎌倉周囲の山を掘り割って「切通し」が作られ、街道が整備されていきました。鎌倉には外部に通じる7カ所に切通しが作られ、これらを「七切通し」と呼び、敵の侵攻を食い止める防衛の要所としても重要な役割を果たしていました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年6月 6日 08:21に書いたブログ記事です。

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