東藝術倶楽部瓦版 20190610:成田山新勝寺への参詣路-「佐倉街道」

 

おはようございます。先週金曜日6月7日は旧暦の端午節、その日に関東甲信地方は梅雨入りとなったようです。今年の梅雨入りはほぼ平年(6月8日)並みということですが、今年は太平洋高気圧の張り出しが弱く、梅雨明けは平年(7月21日)より遅くなる可能性があるとの見方もあります。今朝の東京都心は雨、梅雨の季節を肌で感じさせる1日となりそうです。

 

さて、本日は「佐倉街道(さくらかいどう)」について紹介したいと思います。佐倉街道も江戸時代の脇街道の一つで、別名「佐倉道(さくらみち)」とも呼ばれ、下総国佐倉城を終点とする道です。佐倉街道と呼ばれる街道には、主に「水戸佐倉道」と「千葉佐倉道」の2つのルートがありますが、江戸幕府が公式に佐倉街道、或いは佐倉道としていたのは水戸佐倉道です。

 

水戸佐倉道は、以前紹介した水戸街道の新宿(にいじゅく)追分〔東京都葛飾区〕と佐倉を結ぶ街道です。一方の千葉佐倉道は下総国寒川湊(現在の千葉港)と佐倉を結ぶ街道を指します。

 

新宿追分で水戸街道と分かれた佐倉街道(水戸佐倉道)は、中川と江戸川を越えて八幡(やわた)宿〔千葉県市川市〕、船橋(千葉県船橋市)などを経て佐倉に達します。八幡宿までは道中奉行支配、その先は勘定奉行支配とされていました。佐倉藩主などの参勤交代のほか、成田山新勝寺(成田不動尊)への参詣にも使われ、下総北部と江戸をつなぐ重要な交通路となっていました。成田へは、佐倉から芝山を経て九十九里浜、或いは多古を経て佐原に至る「多古街道」があり、芝山に至る途中の酒々井(しすい)で分岐して酒々井宿を経て成田に通じていました。文化年間(1804年~1818年)頃からは「成田街道」、或いは「成田道」とも呼ばれるようになりました。

 

もう一方の佐倉街道(千葉佐倉道)は、中世に千葉氏が千葉の亥鼻城(いのはなじょう)と佐倉城を結ぶために作ったことに起源を有する由緒ある街道で、江戸時代に入り佐倉藩が佐倉城と寒川湊を結ぶ街道として整備したものです。この道もまた成田山詣での旅行客によく利用された道で、江戸から江戸湾経由で寒川湊に上陸し、千葉妙見宮或いは千葉寺を参拝してから成田山に向かうには非常に便利なルートでした。このため、こちらも「成田道」、或いは「成田千葉寺道」とも呼ばれています。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年6月10日 09:02に書いたブログ記事です。

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