おはようございます。安倍首相がイラン訪問中に起きた昨日のホルムズ海峡での日本企業が運営するタンカーへの攻撃は、日本経済にとっても大きな衝撃となりました。原油価格が高騰し、国連もその対応に動き始めたようです。昨日の講演会でも、朝鮮半島非核化とともにイラン核合意に係る問題が世界経済へのリスク要因だと述べたばかりでした。香港でも逃亡犯条例の改正を巡って大規模なデモが発生するなど、混迷を極める世界情勢が今後どうなっていくのか。ICTによって世界がグローバルにつなっていく現代社会だけに、いずれは我々の生活にも何らかの影響が出てくるものと思います。各地で起きている一つ一つの出来事が、他人ごとでは済まされない事態となっているのです。
さて、本日は「青梅街道」について紹介したいと思います。江戸時代の青梅街道は、甲州街道の第1の宿場である内藤新宿で甲州街道から分岐し、青梅を経由して甲斐国酒折(さかおり)〔山梨県甲府市〕で甲州街道と再合流する道のことです。このため、別名「甲州裏街道」とも呼ばれていました。
内藤新宿のこの分岐点を「新宿追分(しんじゅくおいわけ)」と呼び、今でもその地名が残っています。現在の青梅街道の起点よりも100メートルほど南の地点である「思い出横丁」の入り口付近には、本来の青梅街道が現在の角筈(つのはず)ガード付近を通っていたことを示す碑が置かれています。
新宿追分を出た青梅街道は、中野宿(東京都中野区)、田無宿(東京都西東京市)、小川宿(東京都小平市)、箱根ヶ崎宿(東京都瑞穂町)、青梅宿(東京都青梅市)、氷川宿(東京都奥多摩町)を経て甲斐国に入り、丹波宿(山梨県丹波山村)、塩山(えんざん)宿〔山梨県甲州市〕、小原宿(山梨県山梨市)を通って酒折宿に至ります。青梅街道最大の難所は、丹波宿と塩山宿の間にある大菩薩峠であることから、「大菩薩峠越え」との異名もあります。中里介山の未完の小説『大菩薩峠』の舞台にもなった場所です。
道程からすると、内藤新宿と酒折の間は、青梅街道の方が甲州街道よりも2里(8キロメートル)ほど短く、塩山近くに小規模な萩原口留番所があるくらいで大きな関所がなかったことから、庶民が多く利用していました。とはいえ、道幅は狭く荷を積んだ馬が通れず、人が荷を背負って運び、冬は風雪が激しくたびたび遭難者が出たほどの難所でした。それでも物資輸送上の必要性から人の往来は盛んだったようです。
そもそもこの青梅街道は、慶長3年(1603年)に江戸城修築のため、武蔵国多摩郡上成木(かみなりき)村と北小曽木(きたおそき)村〔いずれも青梅市〕で産出した石灰(御用石灰)を運ぶ道として整備されたものです。そのため当初は「成木街道(なりきかいどう)」、「石灰街道」、「あく(灰汁)つけ街道」、「白粉(おしろい)道」、「御用白土伝馬街道(ごようしらつちてんまかいどう)」などと呼ばれていました。現在、成木街道は東青梅で青梅街道から分岐して上成木に向かう道を指しているようです。
その後、石灰は民間の需要にも応えるようになり、更に薪炭(しんたん)などの林産物や武蔵野新田の農産物の輸送にも利用されたほか、青梅の御嶽神社や秩父巡礼の通行路としても使われていました。天保5年(1834年)刊行の『御嶽菅笠(みたけすげがさ)』には、「荻久保(荻窪)の中屋の店に酔伏せて」と、当時の賑わいを偲ばせる記述がみられます。
高見澤