おはようございます。昨日の瓦版で大阪府吹田市の拳銃強奪事件について冒頭で紹介した直後に、犯人確保のニュースが飛び込んできました。犯人の父親が事件後すぐに自分の息子ではないかと警察に情報提供したとのことです。身内のことをあまり外には話せない風潮がある中で、この父親の勇気ある対応には学ぶべきところがあります。子育てには、自分一人では解決できないことはたくさんあります。昔のように社会全体で子育てすることは、核家族化やプライバシーが浸透している現代では難しいでしょう。また、行政に頼ることも現実的とは言えませんね。ところで、早ければ明日、遅くとも明後日からまた出張が入りました。今週から来週初めにかけて瓦版も休刊とさせていただきます。ご了承ください。
さて、本日は「伊奈街道(いなかいどう)」について紹介したいと思います。この道はすべての道が道中奉行所管の脇街道に属するものではありませんが、江戸の庶民にとって重要な道であったことから、敢えてここで紹介しようと思った次第です。
伊奈街道は、初期には「伊奈道(いなみち)」と呼ばれ、武蔵国五日市(いつかいち)宿〔東京都あきる野市〕の東にあった「伊奈集落」と高円寺〔東京都杉並区〕を結ぶ街道のことです。この道は、後に「五日市街道」と呼ばれるようになります。
伊奈街道は、伊奈集落を出て、山田、引田、渕上とほぼ現在の五日市街道を東に進み、次いで代継(よつぎ)、油平(あぶらだい)、牛沼、雨間(あめま)と現在の睦橋通り(むつみばしどおり)付近をたどり、野辺を過ぎて「小川の渡し」〔上記地名はいずれもあきる野市〕で多摩川を渡河して拝島〔東京都昭島市〕に入ります。拝島からは二通りの道があり、一つは今の奥多摩街道に沿う道で、田中、中神、築地(ついじ)〔いずれも昭島市〕を経て立川の柴崎村〔東京都立川市〕に入り、そこから甲州街道に抜ける道筋です。もう一つの道は、拝島から現在の玉川上水に近い道をたどり砂川村の天王橋〔東京都立川市〕に至り、そこから今の五日市街道を通って高円寺に抜ける道筋です。
伊奈集落は、壬平2年(1152年)に、信濃国伊那谷から12人の石工(石切職人)が良質な石材を求めて武蔵国増戸(ますこ)辺り〔あきる野市〕にやってきて拓いた村とされています。ここの石材は「伊奈石」と呼ばれ、なかでも「伊奈臼」と呼ばれる伊奈石で作られた石臼は軽くて挽きやすいことで評判の代物でした。この伊奈村は中世以来、宿場町として発展し、戦国時代末期には市が立って賑わっていました。
天正18年(1590年)、徳川家康が江戸に入府すると、江戸城の修築が始まります。そこで、石切りに長けた伊奈の石工の腕が買われ、徴用されることになりました。石工たちは江戸市中と伊奈の間を頻繁に行き来するようになります。このため伊奈街道の往還路は、江戸市中では伊奈道、伊奈では「江戸道」とも称されていました。
江戸城の修築が完成すると、石工の往来は減っていきます。一方、薪炭の生産地である檜原村(ひのはらむら)〔東京都檜原村〕に近い五日市宿に薪炭取引の市が設けられるようになり、伊奈街道は次第に五日市宿からの薪炭輸送が主流になって、伊奈村の宿場町としての賑わいは失われていきました。享保20年(1735年)、五日市宿は江戸幕府から炭運上(炭税)徴収の委託を受けたことから、炭の生産者を支配することにより急成長を遂げます。伊奈村の衰退によって、伊奈街道はいつの間にか五日市街道と呼ばれるようになりました。また、武蔵野台地の新田開発が進むと、多摩地方の農産物を江戸市中に運ぶ重要な道として位置付けられ、更に発展していくことになります。
高見澤