東藝術倶楽部瓦版 20190628:源頼義・義家父子奥州に下る-「下妻街道」

 

おはようございます。大阪で開催されるG20サミット出席のため、各国首脳の続々と訪日しています。昨日は安倍総理と中国の習近平国家主席との日中首脳会談が行われ、来春、習主席が国賓として日本を公式訪問することが決まりました。日中関係は完全に正常軌道に戻ったと、お決まりの言葉で日中関係改善を強調していますが、政治もまた情勢によって変化する生き物ですから、予断が許されないところもあります。今のところ、日中経済関係は総じて良好に推移していますが、これもまた政治関係の動向に大きく左右されることは言うまでもありません。グローバル化、第四次産業革命の到来という国際情勢の大きなうねりの中で、日中関係も新たな発展を目指すことが求められています。

 

さて本日は、「下妻街道(しもつまかいどう)」について紹介したいと思います。下妻街道は、中川の自然堤防の上に築かれた古道で、平安時代の末期には奥州へ向かう主要道路としてよく使われていました。前九年の役(奥州十二年合戦)〔永承6年(1051年)~康平5年(1062年)〕や後三年の役(後三年合戦)〔永保3年(1083年)~寛治元年(1087年)〕では、奥州に向かった源頼義・義家父子の軍勢がこの道を通ったとされています。

 

下妻街道は、千住宿で日光街道から分岐し、綾瀬川からさらに中川沿いを北上し、吉川(埼玉県吉川市)、野田(千葉県野田市)、水海道(茨城県常総市)、下妻(下妻市)、下館(筑西市)、益子(栃木県益子町)を経由して、喜連川(きつれがわ)〔さくら市〕で奥州街道に合流する約150キロメートルの道程です。常陸国下妻を通ることから「下妻道」とも呼ばれるようになり、日光街道、或いは奥州街道の脇街道として大いに利用されました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年6月28日 09:32に書いたブログ記事です。

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