東藝術倶楽部瓦版 20190701:日本にもあったシルクロード-「神奈川往還」

 

おはようございます。今日から7月、月日の経つのも速いもので、今年もすでに半分が過ぎました。先週末にはG20首脳会議のほか、日米、日中、日ロ、米中などの首脳会談も行われ、懸念されていた最悪のシナリオは何とか回避され、現状を保つのがやっとのことで、大した進展もなく大阪での大イベントは幕を閉じました。唯一進展があったのは、米朝首脳会談が行われたことで、朝鮮半島非核化に向けた交渉が再開されるとのこと。とはいえ、この地球全体が不自然な状態にあることは、何も変わりません。世の不条理に対するストレスは募るばかりです。

 

さて、本日は「神奈川往還(かながわおうかん)」について紹介したいと思います。神奈川往還は、「浜街道」や「武蔵道」のほか、横浜側では「八王子街道(はちおうじかいどう)」とも呼ばれています。また、江戸の幕末から明治にかけて生糸を運んだことから「絹の道」、すなわちシルクロードとも呼ばれるようになりました。

 

甲州街道の宿場である武蔵国八王子宿から始まる神奈川往還は、鑓水峠(やりみずとおげ)〔東京都八王子市〕を越えて相原村(あいはらむら)〔町田市〕に入り、境川東側の原町田村を中継地として鶴間村(町田市)、相模国今宿村(神奈川県横浜市旭区)を経由して横浜港に向かう約40キロメートルの道程です。現在の町田街道及び国道16号に相当する道で、これら宿場の地名は今でも残っています。

 

昔から八王子周辺は、多摩地方をはじめとする武蔵国、甲斐国、信濃国各地で生産された生糸の集積地として栄え、江戸や武蔵国各地に出荷していました。安政6年(1859年)、横浜港が開港し貿易が活発になると、生糸や絹製品が海外輸出の主力商品となり、八王子からこの神奈川往還を通って横浜港に運ばれるようになりました。この生糸や絹商品を扱っていたのが「鑓水商人(やりみずしょうにん)」と呼ばれる絹商人です。

 

鑓水商人は、絹取引で大きな富を築き上げ、大きな屋敷が街道沿いに軒を連ねていました。江戸幕府は鑓水商人による生糸の密貿易を取り締まるために、万延元年(1860年)に「五品江戸廻令(ごひんえどまわしれい)」を出して、生糸、呉服、雑穀、水油、蝋の5品目は江戸での積み廻しによって輸出することとしましたが、これを無視して神奈川往還を通って直接横浜港に荷を運ぶ者が後を絶たなかったようです。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年7月 1日 08:36に書いたブログ記事です。

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