東藝術倶楽部瓦版 20190705:千住女郎衆はいかりか綱か、上り下りの舟とめる-「千住宿」

 

おはようございます。月日が経つのも速いもので、7月もアッという間に1週間が過ぎようとしています。明後日7月7日は七夕であると同時に、二十四節気の一つ「小暑」にあたります。これから次の「大暑」に向けて暑さが増すと同時に、梅雨が続くわけですからジメジメとした蒸し暑さが余計に感じられる時期でもあります。体調管理にはくれぐれもご注意ください。

 

さて、本日は江戸四宿の一つである「千住宿(せんじゅしゅく、せんじゅじゅく)」について紹介したいと思います。千住宿は、日光街道及び奥州街道の江戸日本橋からの第一宿で、荒川(今は隅田川)に掛けられた千住大橋を中心に、隅田川両岸に形成された宿場町です。

 

江戸を中心に街道の整備が始まり、文禄3年(1594年)に荒川に千住大橋が架けら、慶長2年(1597年)に千住が人馬継立が置かれ、寛永2年(1625年)に、千住は日光街道・奥州街道の初宿として指定されます。当初は、後に「本宿(又は千住北組)」と呼ばれるようになる千住一丁目から五丁目までの5町であったのが、交通量の増大によって町域が拡大し、万治元年(1658年)に掃部(かもん)宿、河原町(かわらちょう)、橋戸町(はしどちょう)の3町〔後に「新宿(又は千住中組)」〕が加わり、更に万治3年(1660年)には千住大橋南側の小塚原町(こづかはらまち)と中村町(なかむらまち)の2町〔後に「南宿(又は千住南組)」〕が宿場に加えられ、計10町から成る千住宿が完成しました。

 

千住宿は江戸日本橋からは2里8町(約8.7キロメートル)、次の草加宿までも同じく2里8町で、水戸佐倉街道や下妻街道はここで分岐し、水戸佐倉街道の新宿(にいじゅく)や岩槻道(赤山街道)の舎人(とねり)などにも継立していました。

 

千住宿の宿建人馬は50人と50疋で、元禄9年(1696年)には不足する人馬を周辺の村々から集める「助郷制(すけごうせい)」が定められました。記録(『日光道中宿村大概帳』)によると、天保14年(1843年)、千住宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けられており、宿内の戸数は2,370軒、人口は9,456人であったとのことです。

 

千住宿付近では、荒川、隅田川、綾瀬川などが合流していることもあって、昔から交通・運輸には最適の地であり物資が集まりやすく、千住大橋沿いに「橋戸河岸(はしどかし)」が置かれていたほか、千住河原町には「千住青物市場(やっちゃ場)」が設置され、それが後に御用市場となりました。文政4年(1821年)の調査によると、江戸参勤交代の大名で千住宿を利用した者は64家で、その内訳は日光街道4家、奥州街道37家、水戸街道23家でした。

 

他の江戸四宿と同じように、千住宿にも幕府準公認の飯盛女が置かれていた遊郭があり、岡場所としての賑わいをみせ、幕府に認められていた飯盛女の公許の数は150名でしたが、実際には更に多くの飯盛女がいたものと思われます。当時、「新河岸川舟運(しんがしがわしゅううん)」には船頭が唄った「千住節」なるものがあり、「千住女郎衆はいかりか綱か、上り下りの舟とめる」という一節があるように、多くの舟が停泊する様子がうかがえます。新河岸川舟運については、改めて紹介の機会を設けます。

 

千住宿近辺には西新井大師、大鷲神社(おおとりじんじゃ)、牛田薬師、性翁寺(しょうおうじ)などの神社仏閣のほか、関屋の里、鐘ヶ淵、綾瀬川などの自然も見られることから、行楽地としても賑わっていました。また千住宿には「小塚原刑場」があり、東海道沿いの「鈴ヶ森刑場」や甲州街道沿いの「大和田刑場」と並びに江戸三大刑場の一つとされています。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年7月 5日 09:59に書いたブログ記事です。

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