東藝術倶楽部瓦版 20190708:石神井川に架かる板橋が地名の由来-「板橋宿」

 

おはようございます。今朝出勤してみると、奇妙な現象が起きていることに気が付きました。私の席にはごみ箱が二つあるのですが、その一つが前の席の資料の上に置いてあったのです。先週金曜日の退勤時にはごみ箱は確かに私の事務机の隣に二つ置いてあり、最後に鍵を閉めて帰ったのは私、そして今朝一番で出勤したのも私です。土日に誰かが出勤する可能性はもちろんあるのですが、私のごみ箱を動かすような用事があったとは、業務上は先ず考えられません。仮に掃除の業者が入ったとしても、ごみ箱の中身をそのままにするわけはなく、通常土日は掃除はしません。誰かが、私のごみ箱を漁ったとしか思えないのですが...何のために?

 

さて、本日は江戸四宿の一つ「板橋宿(いたばししゅく)」について紹介したいと思います。板橋宿は、中山道六十九次のうち、江戸日本橋から数えて第一の宿で、川越街道の起点ともなっていました。現在の東京都板橋区本町、仲宿、板橋1丁目、3丁目辺りで、当時は武蔵国豊島村下板橋村の一部でした。

 

板橋宿は、北側(上方側、京都寄り)から「上宿(かみしゅく)〔現在の本町〕」、「仲宿(なかしゅく)〔中宿とも書く、現在の仲宿〕」、「平尾宿(ひらおしゅく)〔下宿(しもしゅく)とも呼ぶ、現在の板橋〕」から構成されていました。上宿は遊芸人などが泊まる木賃宿や安価な一杯飲み屋の町、仲宿は武士や町人相手の平旅籠や商店の町、平尾宿は料理屋や妓楼の町だったようです。これら3つの宿には、それぞれ名主が置かれており、上宿と仲宿の間にはこの地域の地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川(しゃくじいがわ)が流れていました。板橋は、文字通り板張りの木橋で、江戸時代のものは長さ9間(約16.4メートル)、幅3間(約5.5メートル)の緩やかな太鼓橋でした。

 

江戸日本橋から板橋宿までは2里半(約9.8キロメートル)、板橋宿から次宿の蕨宿までは2里10町(約8.9キロメートル)と、江戸四宿のなかでは、江戸日本橋から最も離れている第一の宿場でした。天保12年(1841年)から天保15年(1844)年の道中奉行による調査では、宿往還の長さは20町9間(約2.2キロメートル)、うち街並地は1549町(約1.7キロメートル)と南北に広がっていました。

 

宿建人馬は5050疋でした。天保15年頃の記録では、戸数573軒、人口2,448人と江戸四宿の中では最も規模が小さかったのですが、本陣は仲宿に1軒、脇本陣は3つの各宿に1軒ずつ計3軒も設けられており、旅籠は54軒でした。この板橋宿も品川宿や千住宿と同じように、遊郭として機能しており、150人の飯盛女を置くことが幕府から認められていました。特に日本橋寄りの平尾宿には多くの飯盛旅籠が軒を連ねていたそうです。

 

板橋宿付近の観光地としては、境内が馬つなぎ場となっていた「遍照寺(へんしょうじ)」、その木の下を嫁入り・婿入りの行列が通ると必ず不縁になるとされていた「縁切榎(えんきりえのき)」などがありました。徳川家に降嫁した五十宮(いそのみや)、楽宮(ささのみや)、和宮(かずのみや)の一行は、いずれもこの縁切榎を避けて通り、板橋本陣に入ったといわれています。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年7月 8日 09:27に書いたブログ記事です。

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