東藝術倶楽部瓦版 20190710:江戸の東海道の玄関口-「高輪大木戸」

 

おはようございます。先週木曜日の7月4日に公示された参議院選挙戦が21日(日)の投票日に向けて繰り広げられています。昼間は職場か、或いは外部での会議に出席していることが多いためか、あるいは候補者側の住民の静かな生活を守るための配慮なのかは分かりませんが、ほとんど選挙カーによる候補者名連呼の声は聞こえてきません。それと同じように、今回の選挙戦の争点は何なのかがはっきりしていません。10月に予定されている消費税増税が問題になっているのかといえば、国民も半ば納得、いやあきらめムードなのかもしれません。年金や社会保障費が逼迫するなか、消費税増税か据え置きかの選択は、いずれも日本国民にとってはいばらの道になるでしょう。明日は所用のため、瓦版はお休みさせていただきます。

 

さて、本日は江戸から地方に向かう主な街道の江戸内外の境界に設置されていた「大木戸(おおきど)」及び「高輪大木戸」について紹介したいと思います。もともと「木戸」とは「町木戸」と呼ばれ、江戸市中の町境に設置されていた防衛・防犯のための木製の扉で、木戸番と呼ばれる町役人がその管理を行っていたことは、すでに紹介した通りです。

 

この木戸の大規模なものが大木戸と呼ばれるものです。この大木戸の主な目的は人や物資の江戸への出入りを管理するもので、検問所、あるいは簡易な関所のような役割を担っていました。この大木戸と同じような機能を持つ施設として「見附(みつけ)」がありますが、こちらは江戸城内に入る検問所であったのに対し、大木戸は江戸市街地に入る際の検問所といった違いがあります。

 

大木戸は、江戸の町をここまでという境界を示す意味もあり、江戸から地方に向かうすべての街道にあったものと思われます。しかし、現在その跡がはっきりと確認できるのは、東海道の「高輪大木戸」と甲州街道の「四谷大木戸」の2カ所で、ほぼこの辺りと思われているのが中山道の「板橋大木戸」の1カ所のみです。

 

東海道の江戸の出入り口に設置された高輪大木戸は、現在の東京都港区高輪二丁目の国道15号線(第一京浜)沿いにあったもので、今でも大木戸跡の土塁が残っており、国の史跡として指定されています。もともと東海道沿いの木戸は、元和2年(1616年)に芝口門が「札の辻(東京都港区三田三丁目)」に建てられ、高札場が設けられていましたが、そこから南に700メートル行ったことろに高札場として大木戸が設けられました。その移設時期は江戸時代中期の宝永7年(1710年)、享保9年(1724年)、寛政4年(1729年)など諸説あり、はっきりとは分かっていません。

 

高輪大木戸は、道幅約6間(約10メートル)の街道の両側に築かれた石垣で覆った土塁の間に木戸を設け、明六つ(午前5時頃)に木戸を開き、暮六つ(午後5時頃)に木戸を閉じて、治安の維持と交通規制を行っていました。これが江戸後期になると、木戸がなくなり土塁のみが残されます。土塁の大きさは長さ5間(9メートル)、幅4間(7.2メートル)、高さ1丈(10尺、3メートル)で、明治時代に道路拡張のために山側の土塁が撤去され、今は海側の土塁が残るのみとなっています。

 

幕末期に伊能忠敬が日本地図作成のために、この高輪大木戸を全国測量の起点としたことは有名で、この近くには忠臣蔵で知られる赤穂浪士の墓所となっている泉岳寺があります。2020年春には山手線の新駅「高輪ゲートウェイ駅」が開業しますが、この駅名もこの高輪大木戸に因んで命名されたものです。

 

今では国道15号線沿いにビルが立ち並び、JRの線路の向こうには港南側の建物が見え隠れしますが、江戸時代は京上り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎がこの高輪大木戸で行われ、付近には茶屋などもあって、海岸の景色もよく月見の名所でもあったようです。この大木戸を出ると、東海道第一宿である品川宿が目と鼻の先に見えてきます。

 

高見

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年7月10日 08:51に書いたブログ記事です。

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