東藝術倶楽部瓦版 20190827:【江戸の乗り物その13】江戸時代の大型木造船-「弁才船」

 

おはようございます。韓国という国は、中々日本人には理解しにくい国で、大統領でさえも糾弾されると簡単に落馬し、犯罪者として刑務所に入ってしまうケースもあります。今、日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を決めた文在寅(ムンジェイン)大統領ですが、次期法務部長官に内定している最側近の曺国(チョグク)氏への娘の大学の不正入学というスキャンダルが大問題となっており、最悪の状態にある日韓関係以上に、韓国人の国民感情に火を付けた形となっています。GSOMIA破棄の問題も、そのスキャンダルから国民の目を逸らすためだったのではないかとの憶測もされているようです。明日と明後日は所用のため、瓦版をお休みにさせていただきます。

さて、本日は「弁才船(べざいせん)」について紹介してみたいと思います。弁才船は、安土桃山時代から江戸時代、明治にかけて日本全国で国内海運に広く使われていた大型木造船のことです。「弁財船(辨財船)」、「弁済船(辨濟船)」とも記述され、「べざいぶね」、「べんざいせん」といった呼び方もありました。先に紹介した北前船、菱垣廻船、樽廻船などに使われていた船もすべてこの弁才船でした。

 

もともと弁才船は瀬戸内海で使われていた中型・小型の船舶でしたが、江戸時代に入ると積石数は110石から960石、主力は250石前後となり、これが元禄末期(18世紀)頃になると船型も更に大型化して、1,000石を超える大型船が登場、主力も350石積へと大きく発展します。更に江戸時代後期には1,000石積が主流となり、弁才船を「千石船(せんごくぶね)」と呼ぶようになりました。もちろん、千石船の呼称は船型にかかわらず「積石数(つみこくすう)」を意味する呼び名ですが、1,000石積の弁才船が広く普及したことによって、弁才船を千石船と呼ぶようになったのです。

 

弁才船の構造は、外見上「一本水押し(みおし)〔1本の長大な部材で構成された船首で波を切る働きを有する〕」、三階造り、「垣立(かきだつ)〔左右の舟べりに欄干状に立てた囲い〕」、「艫櫓(ともやぐら)〔船体後半部に設けられた櫓(船室)〕」、「外艫(そととも)〔船体後部に突き出した和船特有の船尾〕」などから成っていることが分かります。「航(かわら)」と呼ばれる船首から船尾に通した厚く平らな船底材、「根棚(ねだな)〔かじき〕」、「中棚(なかだな)」、「上棚(うわだな)」等の外板と多数の梁によって構成されていました。室町時代から江戸時代前期に伊勢地方で造られた「伊勢船」や当時の主力船であった「二形船(ふたなりぶね)」と形状的にはほとんど変わりませんが、この二つの船の船首が箱型であったところに大きな違いがあります。

 

寛永12年(1635年)に江戸幕府が500石以上の船の建造を禁止し、没収したことは以前にも紹介した通りですが、その3年後には商船については例外として許可を与えているようです。しかし、海外との通商制限により、外洋航行の必要性は限られたものとなり、弁才船も内海や沿岸航海用に改良されていきました。従来、弁才船は帆走と櫓漕の兼用が一般的でしたが、幕藩体制の安定化に伴う経済の発展によって物流産業に大きな革命がもたらされることになります。海運の価格競争が激化し、帆走専用化や航海技術の向上による航海の迅速化・効率化が求められ、その結果、18世紀中頃には弁才船の稼働率が2倍になりました。

 

また、船舶の大型化、堪航性(たんこうせい)〔船舶の航行能力〕の向上、安全性の向上、積載量の増量などを目的に、弁才船自体にも大きな改造が加えられていきます。筵帆から木綿帆への転換、木綿帆の改良などもあって、横風帆走や逆風帆走も可能となりました。轆轤(ろくろ)の導入によって帆の巻き上げや伝馬船荷の積み下ろしの労力が軽減されるなど、省力化も進んでいきました。

 

1,000石積の弁才船の大きさ(18世紀中期)は、全長29メートル、幅7.5メートル、15人乗りで24反帆、積載重量は約150トンです。航行能力は、順風帆走や沿岸航法しかできなかった江戸時代前期には大坂から江戸まで平均32.8日、最短で10日というものでした。それが、江戸後期の天保年間(18301844年)になると同じ航路で平均12日、最短で6日と大幅に必要日数が短縮されました。船舶の年間稼働率も年平均4往復であったのが、年8回へと稼働率が上がりました。これは江戸時代の大量消費に合わせて発展していったものと考えられます。

 

この弁才船の活躍は、昭和初期まで続くことになります。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年8月27日 07:48に書いたブログ記事です。

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