東藝術倶楽部瓦版 20190903:【江戸の乗り物その16】和船の巡洋艦-「関船」

 

おはようございます。昨日フィリピン沖で発生した台風13号が発達しながら北上して、一両日には先島諸島に接近、週末には九州地方に近づく恐れがあるようです。先日の豪雨で大きな被害を受けた地方もあり、今後の台風の進路が気になるところです。また、今朝発生した台風14号は、南シナ海を東寄りに進むとみられており、日本への影響はないと思われますが、中国南部や東南アジア諸国への影響が懸念されます。一方、バハマに上陸したハリケーン「ドリアン」は各地に大きな被害をもたらしているようです。地球全体に広がる異常気象、この先ますます酷くなるのではないかと、不安は尽きません。

 

さて、本日は中型の軍用船「関船(せきぶね)」について紹介したいと思います。関船は、戦国時代から江戸時代にかけて日本の水軍で用いられていました。前回紹介した「安宅船」に比べ船体は小さく、攻撃力や防御力は劣りますが、その分小回りは利き、速力が出るために機動力に優るのが大きな特徴です。船体の規模で例えるなら、安宅船が現代の戦艦、関船は現代の巡洋艦といったところでしょうか。

 

関船は、室町時代に大名や寺社、海賊などが瀬戸内海や豊後水道に設けていた関所に配備されていた監視用の船のことを指していました。海路の要衝を抑え、航行する一般の船舶から「関銭(せきせん)」と呼ばれる通行料を徴収することで、航路の安全と住民の保護の任務にあたっていたのです。このため、関船という名称が使われるようになったようです。

 

関船の構造をみると、安宅船と同じように船体のほぼ全長に渡り矢倉と呼ばれる甲板を張った上部構造物を有する「総矢倉」の形態となっており、艪の数は40挺から80挺ほどとなっています。ただ、安宅船と異なるのは船首が箱型ではなく、一本水押しの尖った形となっているところです。総矢倉の周囲は楯板と呼ばれる木製の装甲が設置され、戦闘員や艪の漕ぎ手を保護するようになってはいますが、安宅船よりも楯板は薄く防弾性能は劣っていました。巡航の際には帆走しますが、戦闘時には帆柱を倒して艪による走行に移行します。

 

関船も安宅船と同様に竜骨を使っていないことから軽量かつ頑丈ではあるものの、衝突による破損には弱く、体当たり戦には適していません。楯板に設けられた狭間から火縄銃や弓矢による攻撃と、敵船に接舷して移乗攻撃が主な攻撃方法です。慶長14年(1609年)の「大船建造の禁」以降は、この関船が諸大名の水軍の主力船となっていました。

 

関船の大きさは、通常は40挺から50挺の艪を装備する全長18メートルから23メートルのものが多く、「中関(なかぜき)」と称されていました。また、諸大名の「御座船(ござぶね)」としては70挺から80挺立ての全長32メートルから36メートルの大型のものが建造されていました。徳川家光が建造した76挺立ての「天地丸」は、その代表的なものです。九州、四国、中国の諸大名は、参勤交代の際に、領国から大坂までは御座船と多数の関船による大船団を組んで、海路を往来していました。

 

関船は、またの名を「早船(はやぶね)」とも呼び、その小型のものが「小関船」、または「小早(こはや)」といわれるもので、これについては改めて紹介します。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年9月 3日 12:30に書いたブログ記事です。

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