東藝術倶楽部瓦版 20190925:江戸の物流を支えた「河川舟運」

 

おはようございます。朝晩は大分涼しくなってきましたが、日中はまだまだ暑さが続く東京です。先日の台風17号は、その前に関東を襲った15号の爪痕に追い打ちをかけた形となり、停電で苦労された人も少なくありませんでした。電気に依存した生活が当たり前の現代社会において、電気がなくなった時の生活ほど過酷なものはありません。もちろん江戸時代には電気などありませんでした。当たり前であったものが当たり前でなくなった時、皆さんはどう対応しますか?

 

さて本日からは、江戸時代の「河川舟運(かせんしゅううん)」について紹介していきたいと思います。江戸時代に人や物資の安価な大量輸送手段として、海運が発達したことは、これまで紹介してきた通りですが、それと合わせて日本全国で河川を使った舟による輸送が行われていたことも当然のことです。これを河川舟運、或いは「河川水運」、「内陸水運」と呼びます。

 

河川舟運の発展は日本に限ったことでなく、日本においても古代から行われてきており、人や物資の輸送のほか、文化や習慣の伝播、河岸や津といった船着場・港湾都市の形成をも促すことになったのです。特に江戸時代においては、江戸防衛の観点から街道には関所が設けられ、車の利用が禁止され、大きな川には橋が架けられず、陸路の往来には何かと制限が設けられていたことから、河川舟運が大きく発展することになりました。江戸経済を支える重要な物流システムとして確立されていたのです。

 

江戸時代に河川舟運が発展した政治的背景として、第1に年貢米による徴税制度が確立したことで、各地から江戸に大量の年貢米が河川を通じて送られたこと、第2に参勤交代で商人の物資輸送に対する街道の利用が制限され、河川を利用せざるを得なかったこと、第3に社会の安定化に伴い江戸幕府や諸藩による河川舟運の管理がしやすくなったことが挙げられます。また、経済的背景としては、第1に江戸の人口が大幅に増加したことで、急速に物資の需要が増えたこと、第2に度重なる江戸の大火によって、常に木材の調達する必要があったこと、第3に輸送だけでなく商品取引を行う物流・流通業者の「河岸問屋」が出現したことです。

 

江戸時代の海運の発展については、すでに紹介してきた通りですが、全国の内陸の各地から海に面した港までは河川を使って物資が輸送され、関東各地から江戸までも河川を利用することは少なくありませんでした。江戸初期には、諸大名など地元領主が船主となって運営していましたが、次第に地元有力農民を中心に河川問屋が形成してきます。関東郡代・伊奈忠次が行った利根川東遷による江戸の河川整備も河川舟運の発展に大きな役割を果たしたことは言うまでもありません。

 

河川舟運は日本全国の河川で行われていました。東北の北上川、最上川、阿武隈川、関東の那珂川、利根川、荒川、上信越の阿賀野川、信濃川、東海の富士川、天竜川、木曽川、北陸の神通川、近畿の熊野川、由良川、淀川、中国の高瀬川、旭川、江の川、四国の吉野川、仁淀川、四万十川、九州の遠賀側、筑後川、大淀川などです。内陸から海側へは米、雑穀、木材、竹、薪炭、絹、綿、石材、石灰など、逆に海側から内陸へは塩、海産物、酒、醤油などが双方向で運ばれていました。

 

河川舟運に使われた船は、後日紹介していきますが、動力について、下りは川の流れを利用して船頭が竿を使って船をコントロールしながら荷を運び、上りは帆を張って風を利用したり、人馬が曳いて川を遡っていきました。蒸気機関や内燃機関などない時代ですから、それは大変な労力が必要だったのです。河川舟運によって、河岸には荷物の積み下ろしする船着場や物資を貯蔵する蔵、更に市場などが立ち並ぶ港町が整備されていきました。こうした河岸のことを、信濃川流域では「河戸」、木曽川や長良川などでは「湊」、淀川では「浜」、遠賀川では「船場」などと呼んでいたそうです。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年9月26日 07:54に書いたブログ記事です。

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