東藝術倶楽部瓦版 20190926:【江戸の乗り物その21】小船の川舟「高瀬舟」

 

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さて、本日からは江戸時代の河川舟運で使われていた「船/舟」について紹介していきたいと思います。最初は「高瀬舟(たかせぶね)」です。ところで、「船」と「舟」の違いですが、一般的に「船」はすべてのものに使い、使い分ける場合に大型のもの或いは動力がついたものを船、小型で手漕ぎのものを舟としています。

 

そういう意味では、高瀬舟は小型の船を指します。高瀬舟は日本各地で使われていた川舟の一種で、中世以前に使われていた舟と、江戸時代以降に普及した舟に大別されます。中世以前のものは、船体は小さく、背が高く船底が深いもので、江戸時代以降に使われていたものは、船体は比較的大きくなりましたが、船底は平たく浅くなっていました。高瀬舟の名称は、すでに平安時代前期の記録にはみられ、河川、湖沼、海辺などで渡船や輸送船として使われ、平安貴族の間では遊び船としても利用されていました。高瀬舟の名称は、この時代の背が高い船、すなわち「高背」からきたものと思われますが、ここでは江戸時代以降に使われた高瀬舟について紹介します。

 

室町時代末期、主に備中・美作国(岡山県)の「岡山三大河川(吉井川、高梁川、旭川)」で使われ始めた高瀬舟ですが、江戸時代に入ると、山城国の高瀬川、駿河国の富士川、下総国の利根川など、全国各地の河川でも使われるようになります。京都の豪商である角倉了以(すみのくらりょうい)・素庵(そあん)親子が開削して京都と伏見との間を繋いだ高瀬川は、高瀬舟の運航にちなんで名付けられた川です。

 

江戸時代に一般に使われていた高瀬舟は5石程度(約750キログラム)のものでしたが、利根川水系で使われていた舟は大型化していたようです。

 

高瀬船は帆走、もしくは人馬が曳くことによって運航され、主に物資の輸送に利用されていました。川を下る際には、船頭が舳先の立板に立って、棹で岩を避けつつ流れに従って舟を操作していました。反対に川を上る際には、帆を張って風の力で進んだり、人力で綱を引っ張り上げたりしていました。主な輸送物資は、川上からは年貢米、薪炭、木材、野菜等の農産物などで、川下からは塩、海産物、醤油、酒、畳表などの生活必需品でした。また、京都から大坂に流人を移す際にもこの高瀬舟が使われていたとのことです。

 

高瀬舟の船乗りは、基本的には船上で寝起きしており、陸上の宿に泊まることはほとんどありませんでした。船に釜や瓦竈(かわらくど)等の炊事道具や寝具を積み込み、川水を飲料水に使っていました。高瀬舟は、土足で入ると縁起が悪いとされ、水できれいに洗った「足半(あしなか)」と呼ばれる藁草履を履いて舟に乗っていました。

 

『高瀬舟』という森鴎外の小説があります。高瀬川を下る舟の中で、弟殺しの罪で遠島の刑を受けた罪人と、それを護送する同心との話を通じて、安楽死と知足について考える内容になっています。当時、舟は今よりもずっと生活に密着した身近な乗り物だったのです。

 

高見澤

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年9月26日 07:58に書いたブログ記事です。

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