おはようございます。沖縄県那覇市にある首里城で火災との情報が入ってきています。15世紀から19世紀にかけて琉球王国の政治と文化の中心としての役割を果たしてきた首里城ですが、昭和20年(1945年)の太平洋戦争沖縄戦で焼失、戦後に守礼門や首里城正殿が復元され、平成12年(2000年)には首里城跡が「琉球王国のグスク(城)及び関連遺産群」として世界遺産にも登録されています。日本の百名城の一つにも数えられる首里城、一刻も早く鎮火することを祈ります。
さて、本日は「新大橋」について紹介していきたいと思います。新大橋は、元禄6年12月(1694年1月)に隅田川に架けられた3番目の橋です。当時、両国橋が「大橋」と呼ばれていたことから、新大橋と名付けられました。江戸時代の新大橋は、現在よりも100メートルほど下流のところに架橋されていました。
橋の長さは108間(約196メートル)で、建設には2,343両余りの費用を要したとされています。この橋が架けられるきっかけとなったのは、5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、隅田川に架かる橋が少なく、不便を強いられていた江戸庶民のために架橋を綱吉に勧めたことだと伝えられています。この橋が架けられたことで、江戸時代に入ってから開発が進んだ本所、深川の往来が便利になり、更に隅田川東側の地域が発展していきました。
新大橋は、破損、流失、焼落が非常に多かったようで、その回数は20回を超えています。江戸幕府の財政が窮乏した享保年間(1716年~1736年)には、橋の維持管理が難しいことから廃橋を決めますが、町民の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方がすべてを負担することを条件に、延享元年(1744年)に存続が認められました。町方では、その費用を捻出するために、橋詰に市を開いたり、寄付を集めたりしたほか、橋が傷むのを防ぐために、「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩やすうべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず」という高札を橋の袂に掲げていました。
深川に「芭蕉庵」を構えていた松尾芭蕉は、新大橋完成間近の元禄6年冬に「初雪や懸けかかりたる橋の上」、そして完成直後に「ありがたやいただいて踏むはしの霜」という句を詠んでいます。
ところで、新大橋と言えば、やはり思い出すのは歌川広重の浮世絵、『江戸名所百景』のうち「大はしあたけの夕立」でしょう。幕末の安政3年(1856年)に広重が晩年に手掛けた一大連作の一つで、振り出した夕立に笠や蓑を着けて足早に急ぐ人々が描かれていて、後期印象派画家のゴッホに強い影響を与え、ゴッホが模写したことでも有名です。この作品の名前に出てくる「あたけ」とは、当時新大橋が架かる隅田川の東岸橋詰に係留されていた幕府御用船「安宅丸」のことを指しています。ここに安宅丸の船蔵があったのですね。ちなみに、西岸には水戸藩御用邸がありました。
明治18年(1885年)、新大橋は新しい西洋式の木造の橋として架け替えが行われ、その後明治45年(1912年)に現在の位置にピントラス式の鉄橋として生まれ変わります。大正12年(1923年)の関東大震災の際に、隅田川の橋がことごとく焼け落ちたなかで、唯一新大橋が被災せず避難路として使われ、多くの人命が救われたことから、「人助け橋」、「お助け橋」などと称されました。現在の橋は昭和52年(1977年)に架け替えられたものです。
高見澤