2019年10月アーカイブ

 

おはようございます。沖縄県那覇市にある首里城で火災との情報が入ってきています。15世紀から19世紀にかけて琉球王国の政治と文化の中心としての役割を果たしてきた首里城ですが、昭和20年(1945年)の太平洋戦争沖縄戦で焼失、戦後に守礼門や首里城正殿が復元され、平成12年(2000年)には首里城跡が「琉球王国のグスク(城)及び関連遺産群」として世界遺産にも登録されています。日本の百名城の一つにも数えられる首里城、一刻も早く鎮火することを祈ります。

 

さて、本日は「新大橋」について紹介していきたいと思います。新大橋は、元禄6年12月(1694年1月)に隅田川に架けられた3番目の橋です。当時、両国橋が「大橋」と呼ばれていたことから、新大橋と名付けられました。江戸時代の新大橋は、現在よりも100メートルほど下流のところに架橋されていました。

 

橋の長さは108間(約196メートル)で、建設には2,343両余りの費用を要したとされています。この橋が架けられるきっかけとなったのは、5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、隅田川に架かる橋が少なく、不便を強いられていた江戸庶民のために架橋を綱吉に勧めたことだと伝えられています。この橋が架けられたことで、江戸時代に入ってから開発が進んだ本所、深川の往来が便利になり、更に隅田川東側の地域が発展していきました。

 

新大橋は、破損、流失、焼落が非常に多かったようで、その回数は20回を超えています。江戸幕府の財政が窮乏した享保年間(1716年~1736年)には、橋の維持管理が難しいことから廃橋を決めますが、町民の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方がすべてを負担することを条件に、延享元年(1744年)に存続が認められました。町方では、その費用を捻出するために、橋詰に市を開いたり、寄付を集めたりしたほか、橋が傷むのを防ぐために、「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩やすうべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず」という高札を橋の袂に掲げていました。

 

深川に「芭蕉庵」を構えていた松尾芭蕉は、新大橋完成間近の元禄6年冬に「初雪や懸けかかりたる橋の上」、そして完成直後に「ありがたやいただいて踏むはしの霜」という句を詠んでいます。

 

ところで、新大橋と言えば、やはり思い出すのは歌川広重の浮世絵、『江戸名所百景』のうち「大はしあたけの夕立」でしょう。幕末の安政3年(1856年)に広重が晩年に手掛けた一大連作の一つで、振り出した夕立に笠や蓑を着けて足早に急ぐ人々が描かれていて、後期印象派画家のゴッホに強い影響を与え、ゴッホが模写したことでも有名です。この作品の名前に出てくる「あたけ」とは、当時新大橋が架かる隅田川の東岸橋詰に係留されていた幕府御用船「安宅丸」のことを指しています。ここに安宅丸の船蔵があったのですね。ちなみに、西岸には水戸藩御用邸がありました。

 

明治18年(1885年)、新大橋は新しい西洋式の木造の橋として架け替えが行われ、その後明治45年(1912年)に現在の位置にピントラス式の鉄橋として生まれ変わります。大正12年(1923年)の関東大震災の際に、隅田川の橋がことごとく焼け落ちたなかで、唯一新大橋が被災せず避難路として使われ、多くの人命が救われたことから、「人助け橋」、「お助け橋」などと称されました。現在の橋は昭和52年(1977年)に架け替えられたものです。

 

高見澤

 

おはようございます。腰痛も大分よくなり、今日は何とか出勤できる状態になりました。最近は飛行機や新幹線、バスなどの移動で同じ姿勢のままの状態が続いてことや、先日筑波に行った際に冷えたのが原因ではないかと思っています。明日はまた、帝京大学での講義があり、瓦版もお休みさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は千住大橋に続いて隅田川に2番目に架けられた「両国橋(りょうごくばし)」について紹介したいと思います。両国橋が最初に架けられたのは万治2年(1659年)〔寛文元年(1661年)という説もある〕のことです。

 

両国橋が架橋されるまで、江戸幕府が江戸防備の目的から隅田川への架橋は千住大橋以外は認められてきませんでした。というのも、隅田川が江戸を護る外堀の一部と位置付けられていたからです。ところが、明暦3年(1657年)に発生した明暦の大火で、死者7万人余ともいわれる江戸市民が橋がなくて逃げ場を失って火勢にのまれてしまったことから、時の老中・酒井忠勝らの提案によって、架橋が決断されることになります。こうして出来上がったのが「両国橋」でした。

 

このとき架けられた橋は、長さ94間(約171メートル)、幅4間(約7.3メートル)の木造で、現在よりも下流側にあったとされています。当初の名称は「大橋」と名付けられ、これによってもともと大橋と呼ばれていた千住大橋は、千住大橋と呼ばれるようになりました。この新たに架けられた大橋は、西側が武蔵国、東側が下総国の両国に跨って架けられたことから、俗称として両国橋と呼ばれていました。その後、元禄6年(1693年)に、その下流に「新大橋」が架けられたことによって、両国橋が正式名称となりました。貞享3年(1686年)に、両国橋の東側の地域も武蔵国に編成されてからも両国橋の名称はそのまま残り、両国という地名の由来ともなりました。

 

両国橋の架橋により、江戸下町庶民の避難路が確保されます。また、幕府は火事の際に避難路となる橋が焼け落ちないよう橋の袂に火除地を設けました。これが両国広小路です。ここに見世物小屋や芝居小屋が集まり、盛り場として栄えることになります。更に、両国橋が架橋されたことに伴い、両国橋東側の本所、深川の地域が開発され、都市が拡張されていきます。

 

この両国橋ですが、流失や焼落、破損などにより何度も架け替えが行われました。木造の橋としては明治8年(1875年)が最後の架け替えとなります。この木の橋は、明治30年(1897年)8月の花火大会の最中に群衆の重みに耐え切れず、10メートルにわたって欄干が崩落、数十名の死傷者を出す大事故が発生しました。これ以降、橋は鉄橋へと姿を変えていきます。

 

「夏の涼みは両国の出船入船」。隅田川の花火大会の起源となる「川開き」も、この両国橋の付近で行われていました。

 

高見澤

 

おはようございます。一昨日から腰痛に悩まされながらも、昨日は明日のアルミサッシ入れ替えのための部屋の片づけをしていました。大分回復したのですが、まだ立ち座りに支障が出るので、今日は出勤を諦めました。

 

さて、本日からしばらくの間、江戸時代に隅田川に架かっていた橋について紹介してきたいと思います。最初は「千住大橋(せんじゅおおはし)」です。前回も紹介した通り、現在、隅田川には17本の橋が架かっていますが、江戸時代には千住大橋のほか、「吾妻橋(あづまばし)」、「両国橋(りょうごくばし)」、「新大橋(しんおおはし)」、「永代橋(えいたいばし)」の5本の橋が架けられていました。

 

このうち、最初に架橋されたのが千住大橋です。徳川家康が江戸入府して間もない文禄2年(1593年)、家康の命を受けた関東代官頭の伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)が架橋工事に着手し、翌文禄3年(1594年)11月に完成しました。

 

最初に架橋されたころは、現在の隅田川は入間川とされていた時代で、当時の架橋位置は現在より2町(約200メートル)ほど上流でした。当時、ここには「渡裸川(とらがわ)の渡し〔戸田の渡し〕」と呼ばれる渡船場があり、古い街道筋になっていました。橋の長さは66間(約120メートル)、幅は4間(約7メートル)の木造の橋でした。この橋が架けらえた当初は単に「大橋」と呼ていました。また、それまで現在の白髭橋付近にあった橋場の渡しを経由していた佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋もこの橋に移りました。

 

この橋の工事は大変な難工事だったようで、工事奉行を務めた伊奈忠次も熊野権現(荒川区千住に現存)に7日間の断食祈願をして、やっと完成したと伝えられています。この故事のよって、橋が架け替えられるたびに、橋の余材を使って社殿を修理し、祈願したと伝えられています。

 

「伽羅よりもまさる、千住の槇の杭」。記録によると、千住大橋の橋杭材には、檜、槇、楠などと記されていますが、部材としては様々なものが使われていたようです。言い伝えによると、伊達政宗が陸中南部地方から水に強く朽ちにくい「高野槇(こうやまき)」の材木を寄進し、明治18年(1885年)の洪水によって流されるまで使われ続けたとのことです。その後の調査によって、この高野槇の橋杭が千住大橋の橋下に残っていることが確認されています。

 

千住大橋には、架橋以来一度も流されていないという伝説があります。とはいえ、明和3年(1776年)、安永元年(1772年)には大破したとの記録があり、先にも出ましたが明治18年には洪水で流失しています。また、千住大橋は、正保4年(1647年)、寛文6年(1666年)、天和4年(1684年)、享保3年(1718年)、宝暦4年(1754年)、明和4年(1767年)の6回にわたり改架、改修が行われています。このうち天和4年の改修の際に、現在の場所に架け替えられたとのことです。

 

高見澤

 

おはようございます。今日は二十四節気の一つ「霜降」です。9月の中気ということで、次はいよいよ10月の節気「立冬」、つまりあと2週間も経てば暦の上では冬というわけです。今朝も大分寒くなったとはいえ、夏用のジャケットを羽織って出勤するだけで汗ばむ状態でした。明日は筑波大学で講義があるため、またまた瓦版もお休みさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は「隅田川(すみだがわ)」について紹介したいと思います。隅田川は、江戸の人々にとって、最も親しみのある川といっても言い過ぎではないでしょう。

 

現在の隅田川は、東京都北区の岩淵水門志茂で荒川から分岐し、荒川区、足立区、墨田区、台東区、江東区、中央区を通って東京湾に注ぐ全長23.5キロメートルの一級河川となっています。古くは「墨田川」、「角田川」、「住田川」とも書かれています。岩淵水門のすぐ近くで新河岸川(しんがしがわ/しんかしがわ/しんがしかわ)が、続いて石神井川、神田川、日本橋川等の支流河川と合流します。ちなみに、荒川の源流は奥秩父の甲武信ケ岳(こぶしがたけ)です。

 

もともと隅田川は、旧入間川が江戸湾に流れ込む独立した入間川の下流でしたが、江戸時代に「荒川の瀬替え」によって荒川の本流とされてきました。昭和に入って、荒川の分流となり、隅田川が正式名称として使われるようになりました。

 

古来、隅田川は武蔵国豊島郡と下総国葛西郡との境を流れており、国境を示す川でもありました。浅草辺りでは「浅草川」、駒形辺りでは「宮戸川(みやとがわ)」と呼ばれることもありましたが、江戸時代以降、一般的には吾妻橋周辺より下流を「大川(おおかわ)」と呼んでいました。江戸時代、隅田川が荒川の本流になったのは、寛永6年(1629年)に荒川を旧入間川に付け替える荒川の瀬替えが行われてからです。

 

同時に、現在の河口への河道へほぼ一本化され、江戸の河川舟運に重要な役割を果たすことになります。浅草茅町河岸、新柳河岸、元柳河岸、浜町河岸、尾上河岸、稲荷河岸、湊河岸、船松河岸など、多くの船着き場が設けられたほか、両岸にはたくさんの運河が掘られるなど、物流の重要な大動脈として利用されていました。また、隅田川は清流としても有名で、大川端は納涼、川開き、花見など憩いの場所としても人気を博し、屋形船が頻繁に往来し、川開きの花火の際には多くの人で賑わいました。

 

現在、隅田川には上流から千住大橋、水神(すいじん)大橋、白髭(しらひげ)橋、言問(こととい)橋、吾妻橋、駒形橋、厩(うまや)橋、蔵前橋、両国橋、新大橋、清洲橋、永代橋などが架かり、河口は佃(つくだ)で分流し、東側は相生(あいおい)橋、春海(はるみ)橋、西側には佃大橋、勝鬨(かちどき)橋などが架かっています。しかし、江戸時代は江戸の防衛上の理由から、千住大橋〔文禄3年(1594年)〕、吾妻橋〔安永3年(1774年)〕、両国橋〔万治2年(1659年)〕、新大橋〔元禄6年(1693年)〕、永代橋〔元禄11年(1698年)〕の5本の橋しか設けられませんでした。

 

高見澤
 

おはようございます。昨晩、出張先の北京から戻ってきました。最初は帝京大学と中国の河南大学との共同研究プロジェクトに参加し、黄河流域の経済発展・地域開発に関するシンポジウムでの講演と現地調査、その後北京に移動して清華大学MBAでの講演、更に中国政府の諮問機関である国務院発展研究センターでの来年の日中経済知識交流会開催に関する会議と、かなり重厚な3つのタスクを終えてきました。その間も東京本部からの複数の別件事業の相談、明後日の筑波大での講義資料などの作成もしながらの対応でしたので、土日を挟んでいても決して休まる時間もありませんので、正直いってクタクタの状態で帰国した次第です。出張中、中国の第3四半期のGDPが6%となったとの発表があり、数字面では経済減速が明らかになっています。確かに一部ではそのような面も感じられますが、人々の消費意欲は依然として高く、これだけの経済規模となっているにもかかわらず、6%の経済成長を維持していることは驚異的と言えるでしょう。中国経済については色々な見方があるかと思いますが、凄いことは凄いと認める客観性をもって評価することが大事です。

 

さて、 本日からは江戸の人々の生活に欠かせない「江戸の川」について紹介していきたいと思います。

 

現在、東京を流れる主な河川といえば、隅田川、荒川、江戸川、目黒川、多摩川などの名前が頭に浮かんでくるかと思います。東京に住んでいる人であれば、大体の位置関係は分かるかと思いますが、江戸時代以前の時代のこうした河川の流れは、現在とは大きく異なっていました。

 

江戸と呼ばれる地域の最も東側を流れていたのは「太日川(ふとゐがわ)〔江戸川〕」で、この川はもともと「渡良瀬川(わたらせがわ)」の最下流にあたっていました。今でこそ渡良瀬川は利根川の支流の一つになっていますが、当時の渡良瀬川は独立した河川として江戸湾に流れ込んでいました。

 

以前、「利根川東遷事業」について簡単に紹介したことがあります。文禄3年(1594年)から始まったこの大工事が完成するまで、利根川は太日川の西側を流れて江戸湾に通じていました。現在「古利根川(ふるとねがわ)」として残っている川筋から「旧中川」に沿った流れで、これが当時は利根川の本流でした。

 

この昔の利根川に合流していたのが「荒川」です。荒川は利根川の支流として、昔から「暴れ川」として恐れられていました。頻繁に洪水が起こり、その度に流路が変わってしまっていたようです。この荒川の川筋を変える工事が「荒川の瀬替え」と呼ばれる一大プロジェクトでした。これについては、また日を改めて説明しようと思います。

 

江戸の人たちに最も馴染のある川は、やはり何といっても「隅田川」でしょう。現在の隅田川は、荒川の支流の扱いとなっていますが、昔は「入間川(いるまがわ)」の下流として独立した河川となっていました。この隅田川の流れも江戸時代の瀬替えによって大きく変わってしまいました。

 

次回からは、江戸時代の各河川の流れと、川筋を変えるほどの大工事であった瀬替え等について紹介していきたいと思います。

 

高見澤

 


おはようございます。明日から3連休の方も多いかと思います。今朝も大きなスーツケースを持ち、空港に向かう家族連れの姿が見られました。ただ、テレビでも盛んに報道されているように、大型で非常に強い台風19号がこの週末に日本に上陸、日本列島は暴風雨被害が懸念されています。航空各社や鉄道各社ではすでに計画運休を発表しているところもあり、私はあまり外に出ようという気持ちにはなりません。とはいえ、台風一過の後ですが、週明け1015日からは中国河南省で開かれる帝京大学と河南大学との共同研究プロジェクトに参加し、その後19日には北京に移動して清華大学MBAの学生に対する講演、21日には国務院発展研究センターという中国政府直属のシンクタンクと来年のシンポジウム及び交流会についての会議を行って、即位礼正殿の儀のある22日に帰国する予定です。その間、瓦版もお休みさせていただきますので、ご了承ください。


 


さて、本日は江戸時代の小型快速船「押送船(おしおくりぶね/おしょくりぶね/おしおくりせん)について紹介してみたいと思います。押送船は帆走・漕走併用の小型の高速船で、和船の一種です。葛飾北斎の代表作の一つ「富嶽三十六景神奈川沖浪裏」に描かれているのが、この押送船です。



 

この船は高速航行のために細長い船体と鋭く尖った船首を持つのが特徴で、江戸時代後期の飼料によると、全長38尺5寸(約12メートル)、幅8尺2寸(約2.5メートル)、深さ3尺(約1メートル)で、3本の着脱式マストと7丁の艪を備えていました。漕ぎ手は1艘につき10人ほどいて、風のあるなしにかかわらず常に艪を使って漕走していました。押送船の名称の由来はここにあります。


 


押送船の主な用途は、近海で獲れた鮮魚類を消費都市に急送することで、特に江戸周辺の海で獲れた生魚は、この押送船によって江戸市中の河岸まで送られていました。このため、押送船の管轄は、法的には川船役所となっており、積荷の鮮度を保つために、江戸に入る船舶を監視する浦賀番所での検査を受けることなく通航できる特権が与えられていたようです。


 


江戸近海で獲れた鮮魚の輸送ということから、主に関東地域で使われていたかと思われる押送船ですが、東海や西日本でも広く使われていたようです。押送船の快速性と凌波性に優れていたことが高く評価され、幕末期には浦賀奉行所などがこれと同型の船を採用して、取締りや連絡用として使っていました。


 


高見澤



 

おはようございます。昨日、旭化成名誉フェロー・吉野彰氏のノーベル化学賞受賞が決まり、日本中がその栄誉の祝福の渦で賑わいました。受賞の理由はリチウムイオン電池の開発で、これがスマホやパソコン、電気自動車などの開発・普及を促し、人々の社会生活に大きな恩恵をもたらしました。地道な研究活動が実を結んだ結果と言えましょう。

 

さて、本日は「猪牙船(ちょきぶね)」について紹介したいと思います。猪牙船は「猪牙舟」とも記され、舳先が細長く尖った形をした屋根のない小舟のことを指します。

 

「茶船」の一種とされ、上口の長さは約25尺(約7.6メートル」、幅4.5尺(約1.4メートル)で、船底はしぼってあり、櫓は1挺または2挺です。船首は鋭い水押し造りのため左右に揺れやすいのですが、櫓で漕ぐ際の推進力は十分に発揮され、速度が速いのが特徴です。狭い河川でも動きやすく、特に明暦3年(1657年)の大火以降、江戸市中の河川などで通船、猟船、遊船等に広く使われていました。

 

「猪牙で行くのは深川通い」という川柳にもあるように、この猪牙船は深川や浅草山谷にあった新吉原遊郭に通う遊客がよく使っていました。このため「山谷舟(さんやぶね)」とも呼ばれていました。客はまず柳橋の船宿で船を雇い、隅田川を上り山谷掘(さんやぼり)で下船します。船宿で一服した後、徒歩または駕籠で吉原に向かうのが一般的な交通手段でした。

 

猪牙船の語源は、舟の形がイノシシの牙に似ているという説、押送船の船頭であった長吉が考案した(或いは卓越な漕ぎ手であった)「長吉船」からきたという説、小速いことを「チョロ・チョキ」ということから名付けられたという説など、諸説あります。伊勢地方より以西では、同型の舟を「チョロ」と呼び、漁船として使われていました。

 

猪牙船は、この小型の川船とは別に、瀬戸内海沿岸各地で貨物輸送に使われた10石積から100石積程度の小廻船を指す場合もあります。紀伊半島や四国、九州などの海岸で生魚や干物を運搬した「いさば船」とともに、近距離の商品輸送に使われており、「五大力船」と「荷足船」の中間的な役割を果たした船でした。

 

高見澤

 

おはようございます。今週月曜日から今年のノーベル各賞の受賞者の発表が行われています。月曜日が生理学・医学賞、火曜日が物理学賞、本日水曜日が化学賞、明日木曜日が文学賞、明後日金曜日が平和賞です。そして来週月曜日が経済学賞ですが、この経済学賞は正式なノーベル賞ではありません。以前、どこかで説明した記憶がありますが、また何かの機会があれば改めて紹介しましょう。

 

さて、本日は「江戸湯船(えどゆぶね)」について紹介したいと思います。今では、浴室にある浴槽(バスタブ)のことを「湯船」と呼ぶ人は少なくなったかと思いますが、それでも「湯船に浸かる」などという表現はよく使われます。浴槽が湯船と呼ばれるようになったのは、実は江戸時代に湯船と呼ばれた船があったからなのです。

 

日本において、今のようにお湯に浸かるという入浴方法が生まれたのは安土桃山時代のことで、それまで貴族はお湯に浸からずサウナのような蒸し風呂に入っており、庶民は水で体を洗う行水が一般的でした。これが、江戸時代中期になると庶民もお湯に浸かる習慣が広まったとされています。

 

とはいえ、当時は庶民の家に風呂などなく、専ら銭湯に行かざるを得なかったのですが、それでも銭湯は街の中心部にしかなく、数も限られていました。そこで流行したのが「湯船」です。河川を利用して街外れへと出向き、人々に銭湯を提供していました。いわゆる「移動式銭湯」です。当初は小舟にたらいを積んだ行水船でしたが、次第に改良されて屋形舟形式の湯船になりました。入浴銭をとって湯を提供していたことから「銭湯」、とういう想像はできますよね。

 

この湯船は、後に廻船の出入りの激しい繁華な港で、廻船の乗員・乗客のために銭湯を提供するようにもなります。特に江戸の川筋で行われていたので、江戸湯船が代表的なものとされていました。船の中央に浴槽が据えられ、入浴料は4文(約66円)で、一般的な銭湯の半値だったようです。当時の江戸の大工の日当が540文(約9,000円)、米が一升100文(約165円)、そばが一杯16文(300円弱)でしたから、比較的安価で湯を楽しむことができたわけです。風呂上りに船上で涼むこともでき、さぞかし心地良かったことでしょう。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日から降っていた雨も、今朝になってからは止んでいます。一雨ごとに寒さが増していくことでしょう。今、今年最強の大型で猛烈な台風となった台風19号が発達しながら北上を続け、その後、多少は弱まるものの強い勢力を保ったまま、今週末には日本を直撃するものと思われます。台風15号による被害が癒えない中で、更なる台風の襲来は不安がつのるばかりです。人々に恵みをもたらす自然も、時には猛威ももたらします。自然とどううまく付き合っていくか、今こそ人々の知恵が試される時なのかもしれません。

 

さて、本日は主に大坂の港湾や河川で活躍していた「上荷船(うわにぶね)」と「剣先船(けんさきぶね/けんざきぶね)について紹介したいと思います。

 

貨物の出入りの多い港湾にあって、沖に停泊した廻船の荷物を陸岸まで輸送する瀬取り船(茶船)の中で、主に大坂で使われていた船を上荷船と呼んでおり。その大きさは20石積ないしは30石積程度でした。喫水が浅く造られており、河川での航行が可能なため、大坂から京都にかけての川筋を往来して荷物を運んでいました。淀川で過書船(かしょぶね)〔「過書(かしょ)」と呼ばれる運航手形を所持している船〕とともに就航していた川船は、特に「淀船/淀舟」あるいは「淀上荷船(よどうわにぶね)」と呼ばれていました。

 

一方、剣先船は「劍峰船」とも書かれ、江戸時代初頭以降、大坂、特に大和川水域で使用された川船です。もともと大和川は大和、河内、摂津の間の重要な水利交通路で、河内平野を北上して淀川に合流していました。江戸時代初期頃にその川底が浅くなり、通常の上荷船の運航が困難になりました。このため、浅い川底でも運航可能なもっと浅い喫水の船が求められるようになり、この剣先船が誕生したのです。

 

剣先船は舳先を剣先のように細長く尖らせて、船体は横に平たい船型となっていることから、この名前が付けられました。長さは45尺余(約14メートル弱)、深さは4尺(約42センチメートル)でした。

 

正保3年(1646年)に江戸幕府から認可された上荷船茶船仲間の211艘を「古剣先船」、延宝3年(1675年)に認可された大坂の尼崎安清所有の100艘を「新剣先船」、更に貞享3年(1686年)に認可された大和川沿岸の村民の船78艘を「在郷剣先船」とそれぞれ称し、この計389艘が就航して大和川流域の商品流通に大きな役割を果たしていました。宝永年間(1704年~1711年)に、大和川が大坂湾に直に注ぎ込むよう改修された後もこれらの船は用いられていました。

 

高見澤

 

おはようございます。今日の東京は、やっと秋らしい朝を迎えています。少し肌寒さを感じる人も少なくないと思いますが、私にとってはちょうど良いぐらいの感触です。これから一気に寒さが加速するような予感がしています。明日10月8日は二十四節気の一つ「寒露」です。暦の上ではすでに秋も終盤。ゆっくりと季節感を感じられなくなっていることに、寂しさを感じる今日この頃です。

 

さて、本日は「茶船」の重要な役割の一つである「瀬取り(せどり)」について紹介しておきたいと思います。瀬取りとは、洋上において船から別の船に船荷を積み換えることを指し、一般的には親船から小船へ移動する形がとられます。英語では"Ship-to-ship cargo transfer"と訳されます。この瀬取りを行う船のことを「瀬取り船(せどりぶね)」と呼んでいました。

 

江戸時代までの港は、現在のように大型船舶が入港し着岸するための港湾設備が十分に整備されていたわけではありません。そのため、海上航路を進んできた大型船は一旦港の沖合に停泊し、運ばれてきた積荷は大型船から艀(はしけ)などの小型船に積み替えて陸揚げしなければなりませんでした。そして、その後は河川の航路を小型船で陸上まで運搬する輸送方式となっていました。

 

現在では港湾の整備が大きく進み、大型の船舶が接岸可能な設備が充実し、トラックや鉄道による陸上輸送網の発達、飛行機による航空輸送が利用されていることから瀬取りの作業は少なくなっています。ただ、離島など設備が十分でなかったり、浚渫が難しい港などでは、今でも瀬取りが行われています。

 

北朝鮮への経済制裁に関連し、国連安保理決議として北朝鮮船舶に対する瀬取り行為が禁止されていることは、最近の国際的な話題の一つにもなっています。

 

高見澤

 

おはようございます。原発事業を巡り、関西電力幹部らが金品を受領していたことがマスコミに取り上げられ、企業のコンプライアンスが改めて問われることになっています。中国では、昔から特権を握れば賄賂を受け取って便宜を図ることは当たり前の社会とされ、それが官僚腐敗の温床となってきたことは事実ですが、一方で人間同士のつながりという人脈形成による社会発展を促してきたことも間違いではありません。多少の便宜供与は社会を動かす潤滑油の働きをもたらしますが、それが度を越せば国を崩壊させる震源にもなるわけです。「節度」という言葉が、次第に忘れ去られる危機感を抱かざるを得ない時代とも言うべきなのでしょうか。

 

さて、本日は前回の「茶船」でも名前が出た「食わらんか舟(くわらんかぶね)」について紹介しようと思います。江戸時代、淀川を往来する大型の廻船に近寄り、乗員や乗客に飲食物を売っていた「煮売舟」のことを、特に食わらんか舟と呼んでいました。

 

「食わらんか」とは、大阪枚方地方の言葉で、「食わないのか」という意味があるそうです。枚方で停船している30石積船に鍵爪を掛けて近づき、飲食物を販売していました。小舟の船上に火床を置いて煮炊きし、ゴボウ汁、餅、巻きずし、酒などを提供していました。当時、淀川では「過書船(かしょぶね)」と呼ばれる定期船が八軒家船着場(大阪天満宮)から伏見豊後橋(京都南部)まで往来しており、200石積ないし300石積の貨物船のほか、30石積程度の乗合船が航行していました。淀川で一番の盛り場であった枚方宿には、多くの人が集まっていたのです。

 

淀川の煮売舟は元慶2年(878年)にはすでに存在していた記録があるそうですが、本格的に煮売舟としての商売が始まったのは江戸時代に入ってからです。柱本(はしもと)村〔大阪府高槻市柱本〕の船頭たちが、大坂夏の陣で徳川方へ協力した見返りとして、淀川での飲食物売りの営業特権を与えられたのが始まりです。幕府から営業特権の印として黒字に白の縦筋を染めた川舟旗が与えられ、その代わりとして水上警護や溺れた者の救助などの義務が課せられました。このため舟には「逆艪/逆櫓(さかろ)」が備えられ、舟を後ろにも自由に漕ぎ進められるように設計されていました。

 

当初、柱本で賑わっていた食わらんか舟ですが、寛永12年(1635年)に淀川筋の川船を支配する枚方の監視所の御用を務めるようになってから、枚方の方が賑わうようになりました。

 

提供された飲食物の料金は、汁椀などの食器を食後に返却する際に器の数で計算されていました。中には、支払いを誤魔化すために、器を川に投げ捨てる客もあったようで、川底からたくさんの茶碗などが見付かっているそうです。

 

高見澤

 

おはようございます。「天高く馬肥ゆる秋」。秋の味覚が楽しめる季節になってきました。10月といえば衣替えの季節で、クリーニングに出しておいた秋冬物のスーツがいつでも着ることができるよう準備しているのですが、まだ夏物で十分過ごせる状態です。「暑さ寒さも彼岸まで」などという言葉も、すでに今の季節感に合わなくなってきています。

 

さて、本日は「茶船(ちゃぶね)」について紹介したいと思います。茶船と呼ばれる船は、主に2種類に分けられます。その一つは「瀬取り船(せどりぶね)」、或いは「上荷船(うわにぶね)」とも称され、江戸や大坂などの大港湾都市の港へ入港した大型廻船で運ばれてきた貨物を河岸に積み送るのに使用された船です。もう一つは「うろうろ船(うろうろぶね)」、或いは「煮売船/煎売船(にうりぶね)」と呼ばれ、港湾や河川に停泊中の廻船や航行中の船舶の乗組員・乗客に飲食物を提供していた小船です。

 

瀬取り船として使われていた茶船は、港湾にあって沖がかりしている廻船と陸岸との間の荷物の運送が主な役割で、場所によって船型、構造、規模の大小などが異なり、船種は一定していません。大坂では10石積ないしは20石積の小舟でしたが、江戸ではいろいろな種類があり、品川の瀬取りでは65石積を基本とした大型の茶船が使われていたようです。

 

一方、煮売船として使われていた茶船は、廻船の多い港湾で停泊中の船や通行の頻繁な河川を航行する船の間を「うろうろ」と彷徨う様子から、うろうろ船の名称となったとのことです。通常は、小伝馬船に2人が乗って、船内に竈を設けて餅、芋、でんがく、果物等の食べ物や酒を売っていました。式亭三馬が書いた滑稽本『浮世風呂』四に、「西瓜(すいくわ)玉蜀黍(たうもろこし)のうろうろ船や、馬鹿囃子(ばかばやし)のさわぎ舟が出やうもしれねえ」とあり、当時の様子が表されています。大坂では「食わらんか舟(くわらんかぶね)」と呼ばれ、淀川を往来する大型船に近寄り、乗船客に飲食物を売っていました。

 

茶船としては、このほかにも「猪牙船(ちょきぶね)」や「荷足船(にたりぶね)」などの小船、投網・雑魚・貝類取りなどの磯漁に使う小船、利根川流域で薪炭・木材・米穀等を輸送した中型船を指す場合もありました。これらについては、追々紹介していきたいと思います。

 

高見澤

 

おはようございます。昨日、中国・北京では建国70周年を祝う軍事パレードが行われ、新型のICBMや戦闘機などが披露され、中国が想像以上に軍事力を高めている姿が映し出されました。今回の式典には海外からも多くの来賓が招待され、鳩山由紀夫元首相夫妻のほか、我が職場の理事長も式典に参加しています。軍事パレードに先立つ習近平国家主席の演説では、「平和統一、一国二制度を堅持し、香港・マカオの繁栄と発展、両岸関係の平和と発展を推進する」と述べていましたが、香港では警官が発砲した実弾が高校生に当たり、重体になるという事件も発生しており、香港で起きている抗議デモに対する解決の糸口は、当分見付かりそうもありません。建国70周年の記念行事を無事終えた中国政府、或いは中国共産党がこれから香港に対してどう対処していくのか、目を離せなくなっています。

 

さて、本日は「伝馬船(てんません)」について紹介しようと思います。伝馬船とは、江戸時代から近代にかけて日本で用いられた小型の木造の和船のことで、一般的には、廻船などの大型の船に搭載され、その親船(本船)と陸岸との間を往来して荷物の積み下ろしや、乗員・乗客の運搬、漕送機能のない親船の出入港時の曳航などに利用していました。

 

「艀(はしけ)」、「橋船(はしぶね)」、「脚継船(あしつぎぶね)」、「枝船(えだぶね)」などとも呼ばれていました。今でいう「カッターボート」といったところでしょうか。

 

親船が廻船の場合は100石以上の船には必ず搭載され、搭載される伝馬船の標準は本船の20分の1ないしは40分の1の大きさとされていました。千石積の廻船では30石積の伝馬船を装備しており、全長は40尺(約12.12メートル)で、6丁または8丁の櫓を推進具とし、平たい打櫂(うちかい)、練櫂(ねりかい)、帆を装備する大型のものもありましたが、小型のものは船尾左舷に櫓を備え一人で漕ぐものが多かったようです。操船が比較的自由で軽快なことから、救命用や連絡用に用いられることもありました。

 

親船に積荷がないときには船体中央胴の間にある伝馬込に置かれ、積荷があるときには船首の合羽上に搭載されるか、或いは曳航されていました。船上に搭載する場所のない軍船などでは、曳航されていました。廻船では帆柱、楫(かじ)、帆桁(ほげた)とともに4つ道具の一つとして必ず装備すべき付属品とされていました。

 

高見澤

 

おはようございます。今日は10月1日、中国では建国70周年を祝う軍事パレードが北京の天安門広場の前を通る長安街で盛大に行われる予定です。1949年の建国当時、習近平国家主席をはじめとする現在の国家指導者層は誰も生まれてはいません。「眠れる獅子」と呼ばれた清朝帝国でしたが、西洋列強によって侵略・蹂躙を受け、中国国内は大混乱。日本もその片棒を担いだ歴史は、いまだに日中関係に深い傷跡を残しています。その混乱した中国を何とかまとめ上げ、紆余曲折を経ながら経済大国へと導いたのが中国共産党というわけです。一党独裁による政権や人権問題、少数民族弾圧など何かと問題視される中国ですが、広大な中国を統治することは並大抵のことでは成し得ません。それぞれの歴史的経緯や伝統・文化、人々の考え方、国情など全体を理解しない限り、安易に批判することは正しい行為とは言えません。

 

さて、本日は「木更津船(きさらづぶね)」について紹介しようと思います。木更津船は、上総国(千葉県中部)木更津と江戸を往復した小廻しの廻船のことです。木更津船で使われたのが、前回の瓦版で紹介した海船・川船折衷型の「五大力船」で、弁才船と比べて細長く喫水が浅いのが特徴でした。瀬取りの必要もなく、江戸湾内水運の主力船として活躍していました。

 

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で木更津の水夫たちが徳川水軍に協力して功を立てた報奨として、江戸と木更津間での渡船営業権や幕府の御用船として御城米廻送などの特権を与えられていました。取り扱った荷物は御城米のほか、商人米、薪炭などに加え、乗客も輸送の対象としていました。木更津船は、具体的に江戸本船町(東京都中央区日本橋)の河岸と木更津港を結ぶもので、この船の就航により、木更津が上総と安房の海上輸送の玄関口として栄えることになります。

 

木更津は、「津」の字からも分かるように、古くから港として開かれていた場所で、中世には房総から鎌倉に至る渡船場として栄えてきたと言われています。木更津海岸からは三浦半島や富士山も望むことができ、風光明媚な観光地、保養地としても知られていました。木更津船の最大の利点は、関所を通ることなく江戸と木更津の輸送を行うことができたという点です。

 

高見澤

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