2019年10月アーカイブ

 

おはようございます。沖縄県那覇市にある首里城で火災との情報が入ってきています。15世紀から19世紀にかけて琉球王国の政治と文化の中心としての役割を果たしてきた首里城ですが、昭和20年(1945年)の太平洋戦争沖縄戦で焼失、戦後に守礼門や首里城正殿が復元され、平成12年(2000年)には首里城跡が「琉球王国のグスク(城)及び関連遺産群」として世界遺産にも登録されています。日本の百名城の一つにも数えられる首里城、一刻も早く鎮火することを祈ります。

 

さて、本日は「新大橋」について紹介していきたいと思います。新大橋は、元禄6年12月(1694年1月)に隅田川に架けられた3番目の橋です。当時、両国橋が「大橋」と呼ばれていたことから、新大橋と名付けられました。江戸時代の新大橋は、現在よりも100メートルほど下流のところに架橋されていました。

 

橋の長さは108間(約196メートル)で、建設には2,343両余りの費用を要したとされています。この橋が架けられるきっかけとなったのは、5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、隅田川に架かる橋が少なく、不便を強いられていた江戸庶民のために架橋を綱吉に勧めたことだと伝えられています。この橋が架けられたことで、江戸時代に入ってから開発が進んだ本所、深川の往来が便利になり、更に隅田川東側の地域が発展していきました。

 

新大橋は、破損、流失、焼落が非常に多かったようで、その回数は20回を超えています。江戸幕府の財政が窮乏した享保年間(1716年~1736年)には、橋の維持管理が難しいことから廃橋を決めますが、町民の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方がすべてを負担することを条件に、延享元年(1744年)に存続が認められました。町方では、その費用を捻出するために、橋詰に市を開いたり、寄付を集めたりしたほか、橋が傷むのを防ぐために、「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩やすうべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず」という高札を橋の袂に掲げていました。

 

深川に「芭蕉庵」を構えていた松尾芭蕉は、新大橋完成間近の元禄6年冬に「初雪や懸けかかりたる橋の上」、そして完成直後に「ありがたやいただいて踏むはしの霜」という句を詠んでいます。

 

ところで、新大橋と言えば、やはり思い出すのは歌川広重の浮世絵、『江戸名所百景』のうち「大はしあたけの夕立」でしょう。幕末の安政3年(1856年)に広重が晩年に手掛けた一大連作の一つで、振り出した夕立に笠や蓑を着けて足早に急ぐ人々が描かれていて、後期印象派画家のゴッホに強い影響を与え、ゴッホが模写したことでも有名です。この作品の名前に出てくる「あたけ」とは、当時新大橋が架かる隅田川の東岸橋詰に係留されていた幕府御用船「安宅丸」のことを指しています。ここに安宅丸の船蔵があったのですね。ちなみに、西岸には水戸藩御用邸がありました。

 

明治18年(1885年)、新大橋は新しい西洋式の木造の橋として架け替えが行われ、その後明治45年(1912年)に現在の位置にピントラス式の鉄橋として生まれ変わります。大正12年(1923年)の関東大震災の際に、隅田川の橋がことごとく焼け落ちたなかで、唯一新大橋が被災せず避難路として使われ、多くの人命が救われたことから、「人助け橋」、「お助け橋」などと称されました。現在の橋は昭和52年(1977年)に架け替えられたものです。

 

高見澤

 

おはようございます。腰痛も大分よくなり、今日は何とか出勤できる状態になりました。最近は飛行機や新幹線、バスなどの移動で同じ姿勢のままの状態が続いてことや、先日筑波に行った際に冷えたのが原因ではないかと思っています。明日はまた、帝京大学での講義があり、瓦版もお休みさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は千住大橋に続いて隅田川に2番目に架けられた「両国橋(りょうごくばし)」について紹介したいと思います。両国橋が最初に架けられたのは万治2年(1659年)〔寛文元年(1661年)という説もある〕のことです。

 

両国橋が架橋されるまで、江戸幕府が江戸防備の目的から隅田川への架橋は千住大橋以外は認められてきませんでした。というのも、隅田川が江戸を護る外堀の一部と位置付けられていたからです。ところが、明暦3年(1657年)に発生した明暦の大火で、死者7万人余ともいわれる江戸市民が橋がなくて逃げ場を失って火勢にのまれてしまったことから、時の老中・酒井忠勝らの提案によって、架橋が決断されることになります。こうして出来上がったのが「両国橋」でした。

 

このとき架けられた橋は、長さ94間(約171メートル)、幅4間(約7.3メートル)の木造で、現在よりも下流側にあったとされています。当初の名称は「大橋」と名付けられ、これによってもともと大橋と呼ばれていた千住大橋は、千住大橋と呼ばれるようになりました。この新たに架けられた大橋は、西側が武蔵国、東側が下総国の両国に跨って架けられたことから、俗称として両国橋と呼ばれていました。その後、元禄6年(1693年)に、その下流に「新大橋」が架けられたことによって、両国橋が正式名称となりました。貞享3年(1686年)に、両国橋の東側の地域も武蔵国に編成されてからも両国橋の名称はそのまま残り、両国という地名の由来ともなりました。

 

両国橋の架橋により、江戸下町庶民の避難路が確保されます。また、幕府は火事の際に避難路となる橋が焼け落ちないよう橋の袂に火除地を設けました。これが両国広小路です。ここに見世物小屋や芝居小屋が集まり、盛り場として栄えることになります。更に、両国橋が架橋されたことに伴い、両国橋東側の本所、深川の地域が開発され、都市が拡張されていきます。

 

この両国橋ですが、流失や焼落、破損などにより何度も架け替えが行われました。木造の橋としては明治8年(1875年)が最後の架け替えとなります。この木の橋は、明治30年(1897年)8月の花火大会の最中に群衆の重みに耐え切れず、10メートルにわたって欄干が崩落、数十名の死傷者を出す大事故が発生しました。これ以降、橋は鉄橋へと姿を変えていきます。

 

「夏の涼みは両国の出船入船」。隅田川の花火大会の起源となる「川開き」も、この両国橋の付近で行われていました。

 

高見澤

 

おはようございます。一昨日から腰痛に悩まされながらも、昨日は明日のアルミサッシ入れ替えのための部屋の片づけをしていました。大分回復したのですが、まだ立ち座りに支障が出るので、今日は出勤を諦めました。

 

さて、本日からしばらくの間、江戸時代に隅田川に架かっていた橋について紹介してきたいと思います。最初は「千住大橋(せんじゅおおはし)」です。前回も紹介した通り、現在、隅田川には17本の橋が架かっていますが、江戸時代には千住大橋のほか、「吾妻橋(あづまばし)」、「両国橋(りょうごくばし)」、「新大橋(しんおおはし)」、「永代橋(えいたいばし)」の5本の橋が架けられていました。

 

このうち、最初に架橋されたのが千住大橋です。徳川家康が江戸入府して間もない文禄2年(1593年)、家康の命を受けた関東代官頭の伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)が架橋工事に着手し、翌文禄3年(1594年)11月に完成しました。

 

最初に架橋されたころは、現在の隅田川は入間川とされていた時代で、当時の架橋位置は現在より2町(約200メートル)ほど上流でした。当時、ここには「渡裸川(とらがわ)の渡し〔戸田の渡し〕」と呼ばれる渡船場があり、古い街道筋になっていました。橋の長さは66間(約120メートル)、幅は4間(約7メートル)の木造の橋でした。この橋が架けらえた当初は単に「大橋」と呼ていました。また、それまで現在の白髭橋付近にあった橋場の渡しを経由していた佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋もこの橋に移りました。

 

この橋の工事は大変な難工事だったようで、工事奉行を務めた伊奈忠次も熊野権現(荒川区千住に現存)に7日間の断食祈願をして、やっと完成したと伝えられています。この故事のよって、橋が架け替えられるたびに、橋の余材を使って社殿を修理し、祈願したと伝えられています。

 

「伽羅よりもまさる、千住の槇の杭」。記録によると、千住大橋の橋杭材には、檜、槇、楠などと記されていますが、部材としては様々なものが使われていたようです。言い伝えによると、伊達政宗が陸中南部地方から水に強く朽ちにくい「高野槇(こうやまき)」の材木を寄進し、明治18年(1885年)の洪水によって流されるまで使われ続けたとのことです。その後の調査によって、この高野槇の橋杭が千住大橋の橋下に残っていることが確認されています。