おはようございます。原発事業を巡り、関西電力幹部らが金品を受領していたことがマスコミに取り上げられ、企業のコンプライアンスが改めて問われることになっています。中国では、昔から特権を握れば賄賂を受け取って便宜を図ることは当たり前の社会とされ、それが官僚腐敗の温床となってきたことは事実ですが、一方で人間同士のつながりという人脈形成による社会発展を促してきたことも間違いではありません。多少の便宜供与は社会を動かす潤滑油の働きをもたらしますが、それが度を越せば国を崩壊させる震源にもなるわけです。「節度」という言葉が、次第に忘れ去られる危機感を抱かざるを得ない時代とも言うべきなのでしょうか。
さて、本日は前回の「茶船」でも名前が出た「食わらんか舟(くわらんかぶね)」について紹介しようと思います。江戸時代、淀川を往来する大型の廻船に近寄り、乗員や乗客に飲食物を売っていた「煮売舟」のことを、特に食わらんか舟と呼んでいました。
「食わらんか」とは、大阪枚方地方の言葉で、「食わないのか」という意味があるそうです。枚方で停船している30石積船に鍵爪を掛けて近づき、飲食物を販売していました。小舟の船上に火床を置いて煮炊きし、ゴボウ汁、餅、巻きずし、酒などを提供していました。当時、淀川では「過書船(かしょぶね)」と呼ばれる定期船が八軒家船着場(大阪天満宮)から伏見豊後橋(京都南部)まで往来しており、200石積ないし300石積の貨物船のほか、30石積程度の乗合船が航行していました。淀川で一番の盛り場であった枚方宿には、多くの人が集まっていたのです。
淀川の煮売舟は元慶2年(878年)にはすでに存在していた記録があるそうですが、本格的に煮売舟としての商売が始まったのは江戸時代に入ってからです。柱本(はしもと)村〔大阪府高槻市柱本〕の船頭たちが、大坂夏の陣で徳川方へ協力した見返りとして、淀川での飲食物売りの営業特権を与えられたのが始まりです。幕府から営業特権の印として黒字に白の縦筋を染めた川舟旗が与えられ、その代わりとして水上警護や溺れた者の救助などの義務が課せられました。このため舟には「逆艪/逆櫓(さかろ)」が備えられ、舟を後ろにも自由に漕ぎ進められるように設計されていました。
当初、柱本で賑わっていた食わらんか舟ですが、寛永12年(1635年)に淀川筋の川船を支配する枚方の監視所の御用を務めるようになってから、枚方の方が賑わうようになりました。
提供された飲食物の料金は、汁椀などの食器を食後に返却する際に器の数で計算されていました。中には、支払いを誤魔化すために、器を川に投げ捨てる客もあったようで、川底からたくさんの茶碗などが見付かっているそうです。
高見澤