東藝術倶楽部瓦版 20191028:【江戸の川その3】伽羅よりもまさる、千住の槇の杭-「千住大橋」

 

おはようございます。一昨日から腰痛に悩まされながらも、昨日は明日のアルミサッシ入れ替えのための部屋の片づけをしていました。大分回復したのですが、まだ立ち座りに支障が出るので、今日は出勤を諦めました。

 

さて、本日からしばらくの間、江戸時代に隅田川に架かっていた橋について紹介してきたいと思います。最初は「千住大橋(せんじゅおおはし)」です。前回も紹介した通り、現在、隅田川には17本の橋が架かっていますが、江戸時代には千住大橋のほか、「吾妻橋(あづまばし)」、「両国橋(りょうごくばし)」、「新大橋(しんおおはし)」、「永代橋(えいたいばし)」の5本の橋が架けられていました。

 

このうち、最初に架橋されたのが千住大橋です。徳川家康が江戸入府して間もない文禄2年(1593年)、家康の命を受けた関東代官頭の伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)が架橋工事に着手し、翌文禄3年(1594年)11月に完成しました。

 

最初に架橋されたころは、現在の隅田川は入間川とされていた時代で、当時の架橋位置は現在より2町(約200メートル)ほど上流でした。当時、ここには「渡裸川(とらがわ)の渡し〔戸田の渡し〕」と呼ばれる渡船場があり、古い街道筋になっていました。橋の長さは66間(約120メートル)、幅は4間(約7メートル)の木造の橋でした。この橋が架けらえた当初は単に「大橋」と呼ていました。また、それまで現在の白髭橋付近にあった橋場の渡しを経由していた佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋もこの橋に移りました。

 

この橋の工事は大変な難工事だったようで、工事奉行を務めた伊奈忠次も熊野権現(荒川区千住に現存)に7日間の断食祈願をして、やっと完成したと伝えられています。この故事のよって、橋が架け替えられるたびに、橋の余材を使って社殿を修理し、祈願したと伝えられています。

 

「伽羅よりもまさる、千住の槇の杭」。記録によると、千住大橋の橋杭材には、檜、槇、楠などと記されていますが、部材としては様々なものが使われていたようです。言い伝えによると、伊達政宗が陸中南部地方から水に強く朽ちにくい「高野槇(こうやまき)」の材木を寄進し、明治18年(1885年)の洪水によって流されるまで使われ続けたとのことです。その後の調査によって、この高野槇の橋杭が千住大橋の橋下に残っていることが確認されています。

 

千住大橋には、架橋以来一度も流されていないという伝説があります。とはいえ、明和3年(1776年)、安永元年(1772年)には大破したとの記録があり、先にも出ましたが明治18年には洪水で流失しています。また、千住大橋は、正保4年(1647年)、寛文6年(1666年)、天和4年(1684年)、享保3年(1718年)、宝暦4年(1754年)、明和4年(1767年)の6回にわたり改架、改修が行われています。このうち天和4年の改修の際に、現在の場所に架け替えられたとのことです。

 

高見澤

2021年1月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2019年10月28日 09:10に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20191024:【江戸の川その2】江戸河川物流の大動脈と庶民の憩いの場所-「隅田川」」です。

次のブログ記事は「東藝術倶楽部瓦版 20191029:【江戸の川その4】夏の涼みは両国の出船入船-「両国橋」」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カテゴリ

ウェブページ