東藝術倶楽部瓦版 20191029:【江戸の川その4】夏の涼みは両国の出船入船-「両国橋」

 

おはようございます。腰痛も大分よくなり、今日は何とか出勤できる状態になりました。最近は飛行機や新幹線、バスなどの移動で同じ姿勢のままの状態が続いてことや、先日筑波に行った際に冷えたのが原因ではないかと思っています。明日はまた、帝京大学での講義があり、瓦版もお休みさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は千住大橋に続いて隅田川に2番目に架けられた「両国橋(りょうごくばし)」について紹介したいと思います。両国橋が最初に架けられたのは万治2年(1659年)〔寛文元年(1661年)という説もある〕のことです。

 

両国橋が架橋されるまで、江戸幕府が江戸防備の目的から隅田川への架橋は千住大橋以外は認められてきませんでした。というのも、隅田川が江戸を護る外堀の一部と位置付けられていたからです。ところが、明暦3年(1657年)に発生した明暦の大火で、死者7万人余ともいわれる江戸市民が橋がなくて逃げ場を失って火勢にのまれてしまったことから、時の老中・酒井忠勝らの提案によって、架橋が決断されることになります。こうして出来上がったのが「両国橋」でした。

 

このとき架けられた橋は、長さ94間(約171メートル)、幅4間(約7.3メートル)の木造で、現在よりも下流側にあったとされています。当初の名称は「大橋」と名付けられ、これによってもともと大橋と呼ばれていた千住大橋は、千住大橋と呼ばれるようになりました。この新たに架けられた大橋は、西側が武蔵国、東側が下総国の両国に跨って架けられたことから、俗称として両国橋と呼ばれていました。その後、元禄6年(1693年)に、その下流に「新大橋」が架けられたことによって、両国橋が正式名称となりました。貞享3年(1686年)に、両国橋の東側の地域も武蔵国に編成されてからも両国橋の名称はそのまま残り、両国という地名の由来ともなりました。

 

両国橋の架橋により、江戸下町庶民の避難路が確保されます。また、幕府は火事の際に避難路となる橋が焼け落ちないよう橋の袂に火除地を設けました。これが両国広小路です。ここに見世物小屋や芝居小屋が集まり、盛り場として栄えることになります。更に、両国橋が架橋されたことに伴い、両国橋東側の本所、深川の地域が開発され、都市が拡張されていきます。

 

この両国橋ですが、流失や焼落、破損などにより何度も架け替えが行われました。木造の橋としては明治8年(1875年)が最後の架け替えとなります。この木の橋は、明治30年(1897年)8月の花火大会の最中に群衆の重みに耐え切れず、10メートルにわたって欄干が崩落、数十名の死傷者を出す大事故が発生しました。これ以降、橋は鉄橋へと姿を変えていきます。

 

「夏の涼みは両国の出船入船」。隅田川の花火大会の起源となる「川開き」も、この両国橋の付近で行われていました。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年10月29日 09:59に書いたブログ記事です。

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