東藝術倶楽部瓦版 20191105:【江戸の川その7】大洪水にも耐えた民間の橋-「吾妻橋」

 

おはようございます。3連休もアッという間に過ぎてしまい、また新たな一週間が始まりました。今週の出勤日は4日間ですが、会議・打ち合わせ、セミナー、来客などスケジュールが詰まっており、外出も少なくなく、落ち着いて作業ができない状態です。今年度事業も佳境に入っているのに、そろそろ来年度事業の企画・計画・予算策定などの準備も進めなければならなくなっています。調査部としてのプレーヤーの仕事に加え、調査部長としてマネージメントもこなさなければならない立場はかなりのプレッシャーです。日々、部下からの相談や質問・疑問にも対応するなど、組織をまとめる責任も重く圧し掛かってきます。それをどう楽しんで行うか、それを考えるのもまた「楽しからずや」です。

 

さて、本日は隅田川に架けられた江戸時代最後の橋「吾妻橋(あづまばし)」について紹介しようと思います。現在の吾妻橋は昭和6年(1931年)に完成した3径間鋼ソリッドリブタイドアーチ橋という構造形式の鉄橋で、道路橋では言問橋と駒形橋の間、鉄道橋を含めると東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の隅田川橋梁の間に架けられています。吾妻橋の西岸の交差点は浅草一丁目、雷門など浅草中心街につながっており、東岸にはアサヒビール本社の屋根に奇妙なモニュメントが見えます。この橋の北側が桜の名所として知られる隅田公園になっています。

 

吾妻橋が初めて架けられたのは安永3年(1774年)10月のことです。明和6年(1769年)4月、浅草花川戸の町人・伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が江戸幕府によって認められ、着工後5年間の歳月をかけて完成したものです。隅田川に架けられたこれまでの4本の橋が、幕府によって建設された「公儀橋」であったのに対し、この吾妻橋は唯一民間によって架橋された橋としても知られています。

 

吾妻橋は長さ84間(約150メートル)、幅3間半(約6.5メートル)で、武士以外のすべての通行者から2文の通行料をとっていたことが記録に残っているそうです。この橋が架けられる前から橋の下流に「竹町(たけちょう)の渡し」と呼ばれた渡し船があり、この船は明治9年まで運航されていました。

 

架橋当初、この橋は「大川橋」と呼ばれており、この近辺で隅田川を大川と呼称していたことからきています。その後、江戸の東にあることから町人の間では「東橋」と呼ぶようになり、後に吾妻橋へと改称されるようになります。その理由として、東岸の向島にある「吾嬬神社」へ通じる道であったことからそれが転じて「吾妻」になったという説、そして慶賀名として同じ音である「吾妻」とされた説があります。いずれせよ、明治9年(1876年)に最後の木橋として架け替えられた際に、正式に吾妻橋と命名されました。

 

天明6年(1786年)7月、江戸の町始まって以来の大水害が関東地方を襲います。7月18日には大洪水により隅田川に架かっていた永代橋や新大橋が流失、両国橋も大被害を受ける中、この吾妻橋だけは無傷で残り、架橋に携わった奉行や大工が褒章を賜ったという記録が残っています。その後、吾妻橋は何度かの架け替えを経て、現在に至るわけですが、最後の木橋としては、明治18年7月の大洪水で流出した上流の千住大橋の橋桁が流されてきて吾妻橋の橋脚に衝突し、一緒に流出する事故が起こります。このため明治20年(1887年)に隅田川最初の鉄橋として再架橋されます。そして大正12年(1923年)の関東大震災を経て、昭和6年の現在の橋へと架け替えられたのです。

 

高見澤

2019年11月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年11月 5日 13:39に書いたブログ記事です。

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