東藝術倶楽部瓦版 20191111:【江戸の川その9】江戸河川舟運の主要幹線-「荒川」

 

おはようございます。昨日の東京は天皇陛下即位に伴う「祝賀御列の儀」一色で、皇居周辺は大変な賑わいを見せていたようです。平成から令和へと元号が変わり、2カ月も経たないうちに新しい年を迎えることになります。黒木代表からご案内があったように、12月6日(金)は東藝術倶楽部の忘年会も行われ、年越しの雰囲気も本格化していくことでしょう。先週金曜日11月8日は立冬、暦の上ではすでに冬となり、季節が相も変わらず移り過ぎて行く時間の不可思議さを感じるばかりです。

 

さて、前回お話しした「利根川」に関連して、江戸時代の治水・利水事業として欠かすことのできない「利根川東遷事業」を少し詳細に説明しようと思いますが、その前に利根川と非常に関係の深い「荒川(あらかわ)」と「江戸川(えどがわ)」について紹介しておこうと思います。本日は、荒川についてです。

 

東京23区に荒川区や江戸川区があるように、東京という都市が形成されるにあたり、この二つの川は重要な役割を果たしてきました。荒川は、埼玉県西部の関東山地にある甲武信ケ岳(こぶしがたけ)に源を発し、関東平野を南東流して東京湾に注ぐ一級河川です。一級水系である荒川水系の本流を成し、流路延長は173キロメートル、流域面積は2,940平方キロメートル、埼玉県鴻巣市・吉身町の御成橋付近で2,537メートルの日本最大の川幅を誇ります。

 

荒川は、古くは利根川の支流で、現在の埼玉県熊谷市近辺で利根川と合流していたようです。荒川の名前も「暴れ川」を意味しているように、利根川と同様に河道が安定せず、次第に並行した流路をとるようになり、合流点は次第に下流に移動していきました。荒川の本流が今の綾瀬川を流れていた時代もあったようですが、戦国時代に水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流します。慶長年間(1596年~1615年)に築造された「備前堤」がその重要な役割を果たしたと言われています。江戸時代初期の荒川は、現在の元荒川の川筋を通って埼玉県越谷市・吉川市付近で利根川と合流していました。

 

寛永6年(1629年)、時の関東郡代・伊奈忠治らが久下(埼玉県熊谷市)で河道を締切り、和田吉野川の河道に付け替えて、入間川筋を本流とする流れに変えます。これにより、従来の荒川の河道は「元荒川」として今の中川に合流するようになりました。これが世に言う「荒川の瀬替え」です。当時、同じ時期に行われていた「利根川東遷事業」によって利根川は古利根川の流路から江戸川の流路を流れるようになっていました。

 

こうして付け替えられた後の荒川の流れは、下流で現在の隅田川の河道を通るようになります。当時の荒川の流れは流速が遅く、台風など大雨の際にはしばしば溢れて江戸の下町を水浸しにし、家屋や農作物へ深刻な被害をもたらしていました。こうした被害を覚悟してでも荒川の瀬替えを行った理由は、荒川の水量を増やすことで実現した河川舟運による物資の大量輸送、交通路としての重要性を高めることに狙いがあったからです。江戸時代の荒川流域には、30カ所を超える河岸場や68カ所を数える渡船場があったとされています。

 

大正2年(1913年)から昭和5年(1930年)にかけての17年に及ぶ難工事によって設けられた「荒川放水路」は、東京都北区岩淵にある岩淵水門から江東区・江戸川区の区境にある中川河口までの全長22キロメートル、幅約500メートルの人工河川です。途中、足立区、墨田区・葛飾区の区境を通ります。これが現在の荒川の本流となっており、岩淵水門から分かれる旧荒川部分が隅田川となっています。荒川放水路の建設により、東京が洪水に見舞われることはなくなりました。

 

高見澤

2020年7月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年11月11日 22:03に書いたブログ記事です。

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