東藝術倶楽部瓦版 20191113:【江戸の川その11】利根川最初の河川事業「会の川締切」

 





おはようございます。中国に行くたび、どうして中国人は誰もが先を争って前に行こうとするのかと感じます。中国には「疾不必生、徐不必死」という古い言い回しがあります。「急いだからといって生きられるわけではないし、ゆっくりしたからといって死ぬわけではない」という意味です。紀元前500年頃、春秋時代の斉の国の宰相・晏嬰(晏子)の言葉ですが、2500年前の教訓が全く活かされていないことに人間の愚かさを感じざるを得ません。最近の日本人も街を歩く時や電車の乗り降りにも、そうした傾向が頻繁にみられるようになり、理解に苦しむ行動を見ることが多くなりました。モラルを重んじていると世界から評価が高かった日本人はどこに行ったのでしょうか?


 


さて、これまで江戸の川として隅田川、利根川、荒川、江戸川と江戸に大きな役割を果たしてきた代表的な川を紹介してきました。これで基本的な江戸時代のこれらの川の流れはご理解いただけたかと思います。そこで、本日からは江戸時代に行われた大規模な河川事業について紹介していきたいと思います。先ずは、徳川家康が江戸入府後に、最初に行った「会の川締切(あいのかわしめきり)」についてです。


 


「会の川(あいのかわ)」は、埼玉県北東部に位置する羽生市(はにゅうし)と加須市(かぞし)を流れる川で、もともとは羽生市で利根川から南側に分流し、加須市辺りで同じく利根川の旧流路であった「浅間川(あさまがわ)」〔現在は廃川〕と合流して利根川の本流となっていました。江戸時代初期までは、利根川が大落古利根川の流路を通り、荒川(元荒川)などを合わせて江戸湾に注いでいたことは、これまでにも紹介してきた通りです。



文禄3年(1594年)、忍城主であった家康の四男・松平忠吉が小笠原三郎左衛門に命じて、当時利根川の本流を形成していた会の川を締切り、利根川本流を東に導いて浅間川筋とし、更に島川から権現堂川へと導きます。これにより、利根川が東方向に流路が一本化され、渡良瀬川(太日川)に連結するようになります。この工事を「利根川東遷事業」の始まり、第一次改修とする説もありますが、近年の研究では、この会の川締切は忍領の水害対策が目的であり、元和7年(1621年)以降に行われた利根川の河川整備と切り離して考えるべきとの見方もあります。


 


しかし、会の川締切だけでは、利根川の下流部の水害は依然として解決していなかったようです。文禄4年(1595年)に徳川四天王の一人で上野舘林城主・榊原康政が利根川左岸に総延長33キロメートル、高さ4.5~6メートル、天端(てんば)幅5.59.1メートルの堤防が作られます。これが「文禄堤(ぶんろくてい)」と呼ばれるもので、利根川で最初の本格的な大規模堤防でした。また、同時期には利根川と福川の合流点の2.5キロメートル上流には、「中条堤(ちゅうじょうてい)」と呼ばれる堤防も築かれ、これらにより、増水時に利根川や荒川の水を意図的に熊谷や深谷一帯に氾濫させることで、最下流である江戸を水害から守る役割を果たしていました。


 


その後、利根川流域の河川整備は、元和7年以降の利根川東遷事業へと引き継がれていきますが、その目的は単に水害対策だけではありませんでした。


 


高見澤





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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年11月13日 09:55に書いたブログ記事です。

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