東藝術倶楽部瓦版 20191126:【江戸の川その17】流れ定まぬあやし川-「綾瀬川」

 

おはようございます。先週金曜日、昨日と所用のため瓦版をお休みさせていただきました。明日もお休みさせていただくかもしれませんので、その旨ご容赦ください。一昨日1124日は私の誕生日で、満58歳となりました。定年退職まであと2年ですが、再雇用制度があり、65歳までは本人が望めば勤めることができます。この先どうするかは、その時の状況をみて判断していくことになりますが、正直静かな生活を送りたいというのが本音です。一昨日は上野の森美術館で開催中のゴッホ展に家族総出で行ってきました。印象派と呼ばれる前と後との画風が大きく変わるのがよく分かりますが、強く浮世絵の影響を受けたとの記述がないことに、主催者側の日本人としての意識の低さを残念に思った次第です。

 

さて、本日は江「綾瀬川(あやせがわ)」について紹介してみたいと思います。綾瀬川は利根川一級水系に属する一級河川で、埼玉県と東京都を流れており、同じ利根川水系の中川(なかがわ)の支流でもあります。

 

綾瀬川の水源は、埼玉県桶川市小針領家(こばりりょうけ)にある田園の排水より始まり、東から南東に向きを変えるなかで原市沼川(はらいちぬまがわ)、深作川、末田用水などの支流や農業用水等の水を合わせて次第に流量を増していきます。草加市で綾瀬川放水路を東に分け流量を一気に減らしますが、その後は古綾瀬川(ふるあやせがわ)、伝右川(でんうがわ)、毛長川(けながかわ)などを合わせて東京都に入り、葛飾区で中川に合流します。葛飾区に至る前の足立区では、綾瀬川と中川を結ぶ「花畑運河(はなはたうんが)」も整備されています。全長47.6キロメートル、うち埼玉県部分が39キロメートル、東京都部分が8.6キロメートルで、流域面積は176平方キロメートルです。

 

綾瀬川は水質汚染が深刻な河川としても知られており、流域の市街化の進展とともに昭和40年代(1965年頃から1975年頃)に汚濁が進み、昭和55年(1980年)から15年連続で全国の一級河川ワースト1の不名誉な記録を残しています。最近では水質改善が進んでいますが、まだまだ改善の余地があるようです。

 

戦国時代には、綾瀬川は利根川と荒川の本流にあたり、当時の利根川・荒川は現在の綾瀬川源流の近くの元荒川の流路をたどり、現在の綾瀬川の流れに入っていたものと思われます。元荒川の下流は、戦国時代は星川でしたが、その際に荒川を西から東につなぐ水路が開削されて本流が東側に流れるようになり、更に江戸時代・慶長年間(1596年~1615年)に伊奈忠次らによて備前堤が築かれて綾瀬川が分離しました。綾瀬川の川筋は、長い間、武蔵国内の埼玉郡と足立郡の境とされてきました。

 

綾瀬川中下流域は標高10メートル以下の低地であり、江戸時代初めまでは湿地帯で通行が難しく、大雨が降るたびに川筋が変わり一定しないことから「あやし川」と呼ばれ、これが後に綾瀬川と変化していったと伝えられています。洪水防止のために備前堤が築かれるとともに、忠次の後を継いだ伊奈忠治らによって綾瀬川に並行して新綾瀬川が開削され流量の調整が図られます。これが今の綾瀬川の流路になっています。

 

備前堤によって綾瀬川が独立した流路をたどることで、綾瀬川流域の低湿地の開発、更には綾瀬川流域の用水源化が行われます。また、江戸時代初期の街道整備に伴って寛永7年(1630年)には草加宿が日光街道の宿駅となり、河川舟運を含めた河川整備及び街道整備も行われました。天和3年(1683年)、綾瀬川の直線化の工事が行われ、日光街道も一部綾瀬川沿いを通るようになります。草加市内に今も残っている「草加松原」或いは「千本松原」と呼ばれる1.5キロメートルほどの旧街道がそれです。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年11月26日 07:23に書いたブログ記事です。

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