2019年12月アーカイブ

おはようございます。今月2回目の北京出張を終え、本日最後の出勤日を迎えました。我が職場では、昼には納会が行われ、午後は挨拶回りや残務整理をするなど、各自の都合に応じて帰宅が許されています。私の場合はといえば、出張のためにできなかった事務机の周りの整理と、休暇中に在宅で行う仕事の資料集めで1日が終わりそうです。今年も何かと忙しい1年でしたが、やりたいことが十分にできずに楽しみが来年に持ち越されたこと、とはいえ、決して未練があるわけでなく、引き続き来年も健康で安全・安心に生活や仕事を楽しみたいと思います。年明けの瓦版は1月6日(月)からです。皆さんが楽しめるような内容をお送りできるよう努めたいと思います。よいお年をお迎えください。

 

さて、これまで利根川水系や荒川水系といった江戸の北東側を流れている川を紹介してきましたが、本日は江戸の西側を流れる「多摩川(たまがわ)」について紹介しようと思います。多摩川は、山梨県東部から東京都西部を経て、東京と神奈川の都県境を流れて東京湾に注ぐ一級河川です。多摩川の本流として多摩川一級水系を形成しています。

 

山梨県北東部(甲州市)の埼玉県との県境にある笠取山(かさとりやま)〔標高1,953メートル〕の南斜面下「水干(みずひ)」に端を発した「一之瀬川(いちのせがわ)」は、柳沢峠から流れ込んでくる「柳沢川」と合流すると、そこから下流が「丹波川(たばがわ)」と呼ばれ奥多摩湖に注ぎます。実際に多摩川と呼ばれるのは、この奥多摩湖水の出口である「小河内(おごうち)ダム」より下流になります。

 

総延長は138キロメートル、流域面積は1,240平方キロメートルに及び、奥多摩湖から流れ出た水は、東京都青梅市までは山中を東に流れ、青梅からは概ね南東に多摩丘陵と武蔵野台地の間を下っていきます。その後、東京都調布市と神奈川県川崎市の辺りから都県境を流れて、東京都大田区と川崎市川崎区との境で東京湾に流れ込みます。下流部の国道1号線(第二京浜)に架かる多摩川大橋(東京都大田区と神奈川県川崎市幸区をつなぐ)より下流は、特に「六郷川(ろくごうがわ)」とも呼ばれています。「調布(たつくり)の玉川」という古称もあります。

 

多摩川流域では旧石器時代以降の遺跡や古墳が見付かっており、かなり早い時代から人々が定住していたことが証明されています。関東平野を流れる他の川と同じように、この多摩川も勾配が急なこともあり「あばれ川」としてもよく知られていました。氾濫のたびに流路が変わり、現在の流路になったのは天正18年(1590年)に起きた大洪水からだと言われています。

 

徳川家康が関東転封となり、多摩川下流の扇状地での水稲生産を拡大するため、家康は慶長2年(1597年)に用水奉行の小泉次大夫(こいずみじだゆう)に命じて多摩川両岸の灌漑用水路の整備に着手し、慶長16年(1611年)に右岸に「二ケ領用水(にかりょうようすい)」、左岸に「六郷用水」が完成しました。また、江戸時代初期に開削されたとされる「大丸用水(おおまるようすい)」、承応3年(1654年)に取水が始まった左岸の「玉川上水」などの用水路も相次いで整備され、多摩川下流の低地や台地に豊富な農業用水や飲用水がもたらされました。これにより、米の生産量が飛躍的に伸び、江戸の人々の生活を支えることになります。また、江戸時代には筏による物資輸送にも多摩川は利用されていました。

 

多摩川は昔から水質が良く、清流を好む鮎が多く生息していたことから鮎漁が盛んで、将軍家にも献上されていました。また、多摩川では川砂利採掘にも適しており、幕府御用の砂利としても多く利用されていました。ただ、明治以降は鉄道建設や鉄筋コンクリート住宅等への砂利の需要が急増し、過度の採掘によって河床が低くなり、潮位によっては塩分を多く含む河口の水が遡行して農業用水や水道原水に流入する被害が続出するなどの問題も生じています。

 

多摩川の名の由来には諸説あります。最も有力だと言われているのは、山梨県丹波山(たばやま)、丹波川(たばがわ)の「タバ」が「タマ」に転化したとする説です。また、「タマ」は「霊魂」に通じ、「霊力を持つ川」や「神聖なる川」から付けられたとする説があります。「タマ」は「玉石(たまいし)」に通じ、「玉のように美しい川」とする説、「渟(たまり)」から「溜まれる水」を意味するとする説、そして「田間(たま)」、つまり「水田が広がっている場所」を指す説があります。実際に江戸時代には「玉川」と表記されることが多かったようで、今でも「玉川上水」、「二子玉川」といった固有名詞という形で残っています。ちなみに『万葉集』では「多麻河」という表記もみられます。

おはようございます。今週もあっという間に過ぎてしましました。明後日からまた北京、天津と出張に行ってきます。次にお送りできるのが、今年最後の瓦版になりそうです。今年もまた特に何か大きく飛躍したのかと言われれば、特段そんな変化を感じるようなことはありませんでしたが、自分としては地道に努力を続け、毎日を過ごしてきたという自負はあります。徐々にではありますが、着実に成長している自分にやっと気が付いてきたのかもしれません。ただ、そのことに慢心せずに、引き続き努力を重ね、更なる成長を目指して、気を引き締めていきたいと思います。努力を続けていても、なかなかその成果が目に見えて現れてこなかったことが、自分の成長につながってきたのかとも思っています。

 

さて、本日は「大里用水(おおざとようすい)」について紹介したいと思います。以前、「六堰」について紹介した際に、その六堰から取水する用水を総称して大里用水、または「六堰用水」と呼んでいると説明したことがありました。大里用水は、荒川水系中最大の灌漑用水で、現在は埼玉県深谷市にある新六堰頭首工(ろくぜきとうしゅこう)から取水され、熊谷市、行田市、深谷市、鴻巣市に跨る約3,820ヘクタールに及ぶ水田に農業用水を供給しています。

 

慶長7年(1602年)に「奈良堰」が作られたのを皮切りに相次いで6つの堰が設けられたことは、以前紹介した通りです。当時の堰は、今のようにコンクリートや鉄筋などを使って耐久性がある程度保たれていたわけではなく、木や石を組み合わせて作っていたために、大雨が降れば堰が流されやすく、そのたびに復旧工事を行わなければなりませんでした。そうした工事には各村から総出で修理にあたり、修理にかかる費用も尋常ではありませんでした。

 

また日照りが続いて荒川の水量が減少した際には、水の取り合いで争いが起こります。江戸時代には六堰それぞれから取水するものですから、水争いも余計に激しさを増していました。こうした争いを解決するための手段として、六堰を1つにまとめることになりました。そして、六堰頭首工が完成したのは昭和14年(1939年)のことです。

 

大里用水の名称は、大里地区に位置することから名付けられました。現在、この大里用水を構成する用水路としては以下の用水路があります。

【左岸幹線導水路】

奈良堰幹線用水路:増田堀用水路、左三尺用水路、北堀用水路、南堀用水路(長安寺用水路)

玉井堰幹線用水路:玉井用水路、代堀(日向島用水路、今井用水路)、柿沼堀(中島用水路、青木用水路、下川上用水)

大里幹線用水路:成田用水路、箱田用水路(衣川用水路、平戸用水路)

荒川左岸幹線用水路〔星川〕:杣殿(そまどの)用水路、左幹線用水路(前谷落排水路)

【右岸幹線導水路】

御正吉見堰(みしょうよしみぜき)幹線用水路:吉見幹線用水路(手島用水路、村岡用水路)

五所(ごしょ)用水路

本畠(ほんぱた)用水路

小原(おはら)用水路

おはようございます。今朝は少し暖かく感じる東京都心ですが、昨日のような快晴には恵まれないようです。昨日は事務所を不在にしていたせいか、机の上には決裁書類が山積み。これから一つ一つ処理しなければなりませんが、午前中はまた外出し、お昼を挟んで午後に事務所に戻ります。そこからまた外部の人を交えての会議が二つ続き、夜は関係先との会食という流れになっています。処理しなければならない報告書は溜まる一方で、来週はまた中国出張が待ち構えています。

 

さて、本日は「見沼代用水(みぬまだいようすい)」について紹介してみましょう。見沼代用水は、現在の埼玉県東部から南部にかけての水田地帯を流れる関東平野最大の農業用水とされています。葛西用水のところでも紹介したように、日本三大農業用水の一つにも数えられている重要な用水路です。

 

幹線水路延長は84キロメートル、1万7,000ヘクタールに及ぶ農地を灌漑し、埼玉県行田市を流れる利根川の利根大堰より取水し、ほぼ南に流れて川口市内で荒川に合流します。途中で元荒川や綾瀬川と交差するほか、上尾市内で「見沼代用水東縁(ひがしべり)」と「見沼代用水西縁(にしべり)」の二手に分かれます。東縁は見沼溜井の東側を流れ川口市から東京都に至り、西縁は見沼溜井の西側を流れ大宮台地を切って高沼用水として荒川に合流しています。元荒川との交差地点では、「伏越(こせこし、ふせごし)」と呼ばれる逆サイフォンの原理で川を跨いで水を送る手法が採られ、綾瀬川との交差地点では「懸渡井(かけとい)〔懸樋(かけひ)〕」と呼ばれる木製の樋を支柱で支えて川を跨いで水を送る手法が採用されていました。

 

この見沼代用水の整備を行ったのは、江戸幕府勘定吟味役の井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべいためなが)です。弥惣兵衛は、もともとは紀州藩士でしたが、8代将軍吉宗に従って幕臣となり、勘定吟味役の職が与えられました。吉宗による享保の改革が始まると、幕府財政立て直しのための増収策として新田開発が本格化します。幕府直轄の武蔵国でも新田の開発が活発化し、武蔵国東部〔さいたま市東部〕に存在していた見沼溜井〔三沼溜井、箕沼溜井〕などの灌漑用の溜井を開拓することが決められ、代用水となる農業用水を利根川から供給することになりました。

 

荒川の瀬替えや利根川東遷事業により、元の流域周辺の水不足の懸念を払しょくするため、寛永6年(1629年)に伊奈忠治が天領浦和領内の川筋〔現在の芝川〕を堰き止める形で、長さ8町(約870メートル)の堤防「八丁堤〔八町堤〕」を築き、見沼溜井が作られました。この見沼溜井は土砂の流入で貯水能力が次第に低下、延宝3年(1675年)に溜井の一部が入江新田として干拓されると水不足が更に深刻化していきました。こうした状況の中で、享保7年(1722年)に、享保の改革による新田開発奨励策が打ち出されたのです。

 

享保10年(1725年)、幕府は弥惣兵衛に対して見沼溜井の干拓を命じます。翌享保11年(1726年)には普請役・保田太左衛門による測量が始められました。見沼溜井の代用水として、埼玉郡辺りの利根川から取水して足立郡に抜ける20里(約80キロメートル)の幹水路のほか、高沼用水路など多数の分流路の開削も計画されました。見沼代用水の名称は、見沼溜井の水の代用という意味からきています。

 

取水場所は下中条村〔行田市〕で、現在の利根大堰の地点とほぼ同じで、この近辺の利根川は年間を通じて水深が安定しており、堤も決壊したことがないという好条件が揃った場所でした。代用水測量は上流の利根川取水口からと、見沼溜井から流れ出る芝川からの二手に分かれて行われました。「水盛り」と呼ばれる水準測量によって行われ、30間(約55メートル)で3寸(約9センチメートル)の傾斜〔約1/611の勾配〕という極めて精度の高い工法が使われました。水路の選択も既存の水田は避けて、できるだけ地盤の固い場所を選んでいたようです。

 

享保12年(1727年)9月、見沼溜井周辺の農業用水の需要が減った時期に見沼代用水路の開削を始めました。工事は水路沿いの村々に請負を割当ましたが、必要な資機材は幕府が提供し、技能者も幕府が派遣しました。着工から約5か月後の享保13年(1728年)2月に工事は完成、翌3月には用水路の利用が始まりました。この建設に関わった作業員は延べ90万人、幕府が支出した工事費用は総額約2万両でしたが、これにより新たに1,175町(約1,160ヘクタール)の新田が開発され、毎年5,000石近い年貢米が幕府の蔵に納められたとのことです。

おはようございます。今朝は少し暖かく感じる東京都心ですが、昨日のような快晴には恵まれないようです。昨日は事務所を不在にしていたせいか、机の上には決裁書類が山積み。これから一つ一つ処理しなければなりませんが、午前中はまた外出し、お昼を挟んで午後に事務所に戻ります。そこからまた外部の人を交えての会議が二つ続き、夜は関係先との会食という流れになっています。処理しなければならない報告書は溜まる一方で、来週はまた中国出張が待ち構えています。

 

さて、本日は「見沼代用水(みぬまだいようすい)」について紹介してみましょう。見沼代用水は、現在の埼玉県東部から南部にかけての水田地帯を流れる関東平野最大の農業用水とされています。葛西用水のところでも紹介したように、日本三大農業用水の一つにも数えられている重要な用水路です。

 

幹線水路延長は84キロメートル、1万7,000ヘクタールに及ぶ農地を灌漑し、埼玉県行田市を流れる利根川の利根大堰より取水し、ほぼ南に流れて川口市内で荒川に合流します。途中で元荒川や綾瀬川と交差するほか、上尾市内で「見沼代用水東縁(ひがしべり)」と「見沼代用水西縁(にしべり)」の二手に分かれます。東縁は見沼溜井の東側を流れ川口市から東京都に至り、西縁は見沼溜井の西側を流れ大宮台地を切って高沼用水として荒川に合流しています。元荒川との交差地点では、「伏越(こせこし、ふせごし)」と呼ばれる逆サイフォンの原理で川を跨いで水を送る手法が採られ、綾瀬川との交差地点では「懸渡井(かけとい)〔懸樋(かけひ)〕」と呼ばれる木製の樋を支柱で支えて川を跨いで水を送る手法が採用されていました。

 

この見沼代用水の整備を行ったのは、江戸幕府勘定吟味役の井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべいためなが)です。弥惣兵衛は、もともとは紀州藩士でしたが、8代将軍吉宗に従って幕臣となり、勘定吟味役の職が与えられました。吉宗による享保の改革が始まると、幕府財政立て直しのための増収策として新田開発が本格化します。幕府直轄の武蔵国でも新田の開発が活発化し、武蔵国東部〔さいたま市東部〕に存在していた見沼溜井〔三沼溜井、箕沼溜井〕などの灌漑用の溜井を開拓することが決められ、代用水となる農業用水を利根川から供給することになりました。

 

荒川の瀬替えや利根川東遷事業により、元の流域周辺の水不足の懸念を払しょくするため、寛永6年(1629年)に伊奈忠治が天領浦和領内の川筋〔現在の芝川〕を堰き止める形で、長さ8町(約870メートル)の堤防「八丁堤〔八町堤〕」を築き、見沼溜井が作られました。この見沼溜井は土砂の流入で貯水能力が次第に低下、延宝3年(1675年)に溜井の一部が入江新田として干拓されると水不足が更に深刻化していきました。こうした状況の中で、享保7年(1722年)に、享保の改革による新田開発奨励策が打ち出されたのです。

 

享保10年(1725年)、幕府は弥惣兵衛に対して見沼溜井の干拓を命じます。翌享保11年(1726年)には普請役・保田太左衛門による測量が始められました。見沼溜井の代用水として、埼玉郡辺りの利根川から取水して足立郡に抜ける20里(約80キロメートル)の幹水路のほか、高沼用水路など多数の分流路の開削も計画されました。見沼代用水の名称は、見沼溜井の水の代用という意味からきています。

 

取水場所は下中条村〔行田市〕で、現在の利根大堰の地点とほぼ同じで、この近辺の利根川は年間を通じて水深が安定しており、堤も決壊したことがないという好条件が揃った場所でした。代用水測量は上流の利根川取水口からと、見沼溜井から流れ出る芝川からの二手に分かれて行われました。「水盛り」と呼ばれる水準測量によって行われ、30間(約55メートル)で3寸(約9センチメートル)の傾斜〔約1/611の勾配〕という極めて精度の高い工法が使われました。水路の選択も既存の水田は避けて、できるだけ地盤の固い場所を選んでいたようです。

 

享保12年(1727年)9月、見沼溜井周辺の農業用水の需要が減った時期に見沼代用水路の開削を始めました。工事は水路沿いの村々に請負を割当ましたが、必要な資機材は幕府が提供し、技能者も幕府が派遣しました。着工から約5か月後の享保13年(1728年)2月に工事は完成、翌3月には用水路の利用が始まりました。この建設に関わった作業員は延べ90万人、幕府が支出した工事費用は総額約2万両でしたが、これにより新たに1,175町(約1,160ヘクタール)の新田が開発され、毎年5,000石近い年貢米が幕府の蔵に納められたとのことです。

おはようございます。今日の東京都心は朝から雨が降っています。江戸城北の丸にある田安門周辺のイチョウ並木もすっかり葉が落ちて、冬の様相を呈しています。例年に比べ、冬の到来が遅いように感じるのは気のせいでしょうか? 今年も残すところあと2週間となり、世間ではクリスマスや正月を迎える準備が進んでいるかと思いますが、当方の仕事はなかなかそれを許してはくれません。明日は所用のため、瓦版をお休みさせていただきます。

 

さて、本日は「葛西用水(かさいようすい)」について紹介していきます。葛西用水は別名「幸手用水(さってようすい)」とも呼ばれ、埼玉県東部の平野を灌漑する大規模農業用水路で、灌漑面積は8,000ヘクタールに及んでいます。この用水の末端は東京都足立区まで達し、葛飾区で荒川放水路に注いでいます。埼玉・東京を流れる「見沼代用水」、愛知県にある「明治用水」とともに、「日本三大農業用水」と称され、疎水百選にも指定されています。

 

江戸時代初期、慶長年間(1596年~1610年)には「亀有溜井(かめありためい)」、「瓦曽根溜井(かわらそねためい)」、「葛西井堀(かさいいぼり)」などの溜池が農業用水として利用されていました。その後、利根川東遷事業などの治水・利水工事が進むことによって新田開発が進むと用水路の整備が追い付いていかず、用水不足が生じるようになります。それを解消するために、寛永年間(1624年~1643年)に、元荒川と大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)をつなぐ逆川(さかがわ)が開削されますが、それでも用水不足が続きます。そこで設けられるようになったのが、葛西用水だったのです。

 

万治3年(1660年)、関東郡代の伊奈忠克(いなただかつ)は、利根川の本川俣(ほんかわまた)〔埼玉県羽生市〕に取水口を設けて、川口圦を経て「琵琶溜井(びわためい)」〔埼玉県久喜市・幸手市〕に入り、大落古利根川に通じる延長25キロメートルの幸手領用水を開削します。これが利根川から瓦曽根溜井に至る長大な葛西用水路で、埼玉県東部地域の水田を灌漑する農業用水路として成立しました。

 

享保4年(1719年)、関東郡代・伊奈忠逵(いなただみち)が上川俣〔羽生市〕に葛西用水元圦を設置してに日向堀を通して利根川の水を引き、羽生領南方用水を開発します。これで葛西用水体系が基本的に完成しました。享保13年(1728年)には、葛飾郡金杉村〔埼玉県松伏(まつぶし)町〕から深井新田〔吉川市〕まで、及び樋ノ口村・小向村〔三郷市〕の開削が始まります。これにより、庄内古川、葛飾郡加藤村〔吉川市〕まで延長され、江戸川に排水されるようになりました。そして天保12年(1841年)、葛西用水の水量を増やすために埼玉郡川口村〔加須市〕に堰が設けられました。

 

このように、葛西用水は徐々に範囲が広げられていき、昭和に入ってからも整備が続き、現在に至っています。

おはようございます。一昨日、出張先の北京から戻ってきました。先々週金曜日12月6日に東藝術倶楽部の忘年会に、終了直前に駆け込むことができ、池田顧問、キリロラ顧問、黒木代表をはじめとする皆さんに何とかご挨拶ができた状態でした。その週末はホテルニューオータニで開催した日中省エネ・環境総合フォーラムの事務局を務め、9日月曜日から北京出張というハードなスケジュールをこなし、日曜日の昨日も出張報告の作成に努めていました。そして、今日からまた新たな一週間が始まります。皆様からも当方の身体に対するお気遣いの言葉をいただき、感謝しております。健康には十分気を付けて、積極的にそして前向きに何事にも取り組んでいきたいと思います。

 

さて、本日は「備前渠用水(びぜんきょようすい)」について紹介しようと思います。備前渠用水は、埼玉県で最も古い農業用水の一つとされ、慶長9年(1604年)に江戸幕府の命により、関東郡代の伊奈備前守忠次によって開削されたものです。「備前堀」、「備前渠」、「備前渠川」などとも呼ばれています。

 在、この備前渠用水は埼玉県本庄市で利根川より取水し、深谷市、熊谷市を流れて福川に合流して利根川に流れ込みます。途中で御陣馬川(ごじんばがわ)や小山川(こやまがわ)と流路を共有する区間もあります。総延長は約23キロメートル、最大通水量は毎秒約9立方メートル、利根川右岸の約1,400ヘクタールの水田に水を供給しています。

備前渠用水は、当初は烏川(からすがわ)が利根川に合流する地点から取水していましたが、寛保2年(1742年)に洪水によって烏川の流路が変わり元圦(もといり)と呼ばれる取水口が壊滅、また、明和4年(1767年)の洪水でも用水路が壊滅的な被害を受けるなど、困難な道のりを歩んできました。加えて天明3年の浅間山の大噴火では、火山灰や溶岩の堆積によって利根川の河床が異常に高くなり、備前渠用水にも大量の土砂が流入して用水路が埋没してしまい、水害の危険性が高まったことから、寛永5年(1793年)に備前渠用水の元圦は封鎖されてしまいました。このため、下流域に用水が供給されず、水争いが起こります。その後も用水不足のために、文政元年(1818年)頃には米の不作が続くようになりました。

備前渠用水の元圦の復旧工事が行われて用水が開通したのは元圦締切りから35年後の文政11年(1828年)のことです。工事開始後43日で通水が完了したとのことで、これを記念して天保4年(1833年)に「備前渠再興記」の石碑が建てられています。元圦は利根川や烏川の乱流域に位置していることから、その後二度も元圦変更の工事が行われています。

 前渠用水の名前は、伊奈備前守忠次から名付けられたことは一目で分かるでしょう。「渠(きょ)」とは中国から来た言葉で、人工の河川を指します。開削当初の供給規模としては、深谷領3,000石、幡羅郡(はらぐん)10,000石、忍領20,000石、羽生領48,000石の用水路で、用水路の施設管理維持のための農民組織「組合」は一つでした。それが万治2年(1656年)に深谷領は矢島堰〔小山川〕、幡羅郡は仁手(にって)堰〔利根川〕、忍領と羽生領は日向(ひなた)堰〔福川〕の3つの組合に分けられています。その後、忍領と羽生領は「北河原(きたがわら)用水」として独立しています。

尚、武蔵国北部において備前渠用水よりも歴史が古いと思われる用水路には、長楽(ながらく)用水、瓦曽根溜井(かわらぞねためい)、六堰用水などがあります。

 多の洪水被害に見舞われながらも、武蔵国北部の田畑を潤してきた備前渠用水ですが、いまでもその水は農作物の生産に活用され、我々の生活を支えています。

おはようございます。一昨日、出張先の北京から戻ってきました。先々週金曜日12月6日に東藝術倶楽部の忘年会に、終了直前に駆け込むことができ、池田顧問、キリロラ顧問、黒木代表をはじめとする皆さんに何とかご挨拶ができた状態でした。その週末はホテルニューオータニで開催した日中省エネ・環境総合フォーラムの事務局を務め、9日月曜日から北京出張というハードなスケジュールをこなし、日曜日の昨日も出張報告の作成に努めていました。そして、今日からまた新たな一週間が始まります。皆様からも当方の身体に対するお気遣いの言葉をいただき、感謝しております。健康には十分気を付けて、積極的にそして前向きに何事にも取り組んでいきたいと思います。

 

さて、本日は「備前渠用水(びぜんきょようすい)」について紹介しようと思います。備前渠用水は、埼玉県で最も古い農業用水の一つとされ、慶長9年(1604年)に江戸幕府の命により、関東郡代の伊奈備前守忠次によって開削されたものです。「備前堀」、「備前渠」、「備前渠川」などとも呼ばれています。

在、この備前渠用水は埼玉県本庄市で利根川より取水し、深谷市、熊谷市を流れて福川に合流して利根川に流れ込みます。途中で御陣馬川(ごじんばがわ)や小山川(こやまがわ)と流路を共有する区間もあります。総延長は約23キロメートル、最大通水量は毎秒約9立方メートル、利根川右岸の約1,400ヘクタールの水田に水を供給しています。

前渠用水は、当初は烏川(からすがわ)が利根川に合流する地点から取水していましたが、寛保2年(1742年)に洪水によって烏川の流路が変わり元圦(もといり)と呼ばれる取水口が壊滅、また、明和4年(1767年)の洪水でも用水路が壊滅的な被害を受けるなど、困難な道のりを歩んできました。加えて天明3年の浅間山の大噴火では、火山灰や溶岩の堆積によって利根川の河床が異常に高くなり、備前渠用水にも大量の土砂が流入して用水路が埋没してしまい、水害の危険性が高まったことから、寛永5年(1793年)に備前渠用水の元圦は封鎖されてしまいました。このため、下流域に用水が供給されず、水争いが起こります。その後も用水不足のために、文政元年(1818年)頃には米の不作が続くようになりました。

 

備前渠用水の元圦の復旧工事が行われて用水が開通したのは元圦締切りから35年後の文政11年(1828年)のことです。工事開始後43日で通水が完了したとのことで、これを記念して天保4年(1833年)に「備前渠再興記」の石碑が建てられています。元圦は利根川や烏川の乱流域に位置していることから、その後二度も元圦変更の工事が行われています。

 備前渠用水の名前は、伊奈備前守忠次から名付けられたことは一目で分かるでしょう。「渠(きょ)」とは中国から来た言葉で、人工の河川を指します。開削当初の供給規模としては、深谷領3,000石、幡羅郡(はらぐん)10,000石、忍領20,000石、羽生領48,000石の用水路で、用水路の施設管理維持のための農民組織「組合」は一つでした。それが万治2年(1656年)に深谷領は矢島堰〔小山川〕、幡羅郡は仁手(にって)堰〔利根川〕、忍領と羽生領は日向(ひなた)堰〔福川〕の3つの組合に分けられています。その後、忍領と羽生領は「北河原(きたがわら)用水」として独立しています。

 尚、武蔵国北部において備前渠用水よりも歴史が古いと思われる用水路には、長楽(ながらく)用水、瓦曽根溜井(かわらぞねためい)、六堰用水などがあります。

多の洪水被害に見舞われながらも、武蔵国北部の田畑を潤してきた備前渠用水ですが、いまでもその水は農作物の生産に活用され、我々の生活を支えています。

はようございます。本日は東藝術倶楽部の忘年会です。池田顧問、キリロラ顧問も参加されての久しぶりの集まりです。どのようなお話が飛び出すか、楽しみです。この週末は、梶原経済産業大臣、小泉環境大臣が参加する日中省エネ・環境総合フォーラムが東京のホテルニューオータニで開催されます。私の所属する組織も、経済産業省とともに日本側主催者として事務局を務めています。日中合わせて800名を超える関係者が集まります。その大イベントが終わったら、翌日の月曜日から土曜日まで北京出張です。今回の出張は医療機器及び医薬品の関連のイベント参加と実態調査です。マクロ経済から始まり、ビジネス環境、省エネ・環境、自動運転、そして医療機器・医薬と異なる分野を取り扱うので、その知識を頭に詰め込むだけでも大変な作業です。ということで、来週は1週間、瓦版も休刊致します。ご理解のほど、よろしくお願い致します。

 

さて、本日は「常陸川(ひたちがわ)」について紹介したいと思います。常陸川は、かつて下総国を東に流れ香取海に注いでいた川で、現在の利根川下流部にあたる部分です。平安時代には「東の広河(あずまのひらかわ)」、「広潟(ひらかた)」などと呼ばれ、常陸川と称されるようになったのは室町時代になってからのようです。

 

もともと常陸川は、下総国西部の猿島台地(茨城県坂東市)などから南に流れ出す小河川や沼沢の水が集まって東に流れていました。栃木県小山市から流れてくる宮戸川(みやとがわ)や大川などが流れ込んでいたかつての「長井戸沼(ながいどぬま)」〔現在は干拓〕が常陸川の流頭部にあたります。その後、南岸の関宿と北岸の境町との間を通って東に流れ、一ノ谷沼(いちのやぬま)、鵠戸沼(くぐいどぬま)、浅間沼、菅生沼(すがおぬま)などからの水を合流して川幅を広げていました。

 

このように香取海に至る常陸川の流路は低湿地帯で多くの沼が存在していました。途中、現在の茨城県守谷市、取手市、千葉県柏市の境辺りには「藺沼(いぬま)」という細長い湿地帯があり、そこをぬけると古利根川の流路を通って鬼怒川と合流し、香取沼に流れ込んでいました。常陸川自体は流域も大きくなく、水量は多くはありませんでした。

 

江戸時代に入り、利根川東遷事業が始まって常陸川の流頭部が開削され、赤堀川が完成すると利根川の水が一部常陸川に流れ込みます。これにより常陸川の上流の水量が大幅に増加しました。この工事が完成したのが承応3年(1654年)のことです。これに先立ち、鬼怒川〔寛永6年(1629年)〕や小貝川〔寛永7年(1630年)〕と常陸川との合流点の付け替えも行われていたことは、先に説明した通りです。

 

利根川の流れは、利根川東遷事業の後も当初は権現堂川から江戸川への流量が多かったのですが、次第に常陸川への流量が多くなります。その後、昭和3年(1928年)に権現堂川が廃止され、現在では常陸川が利根川の本流、江戸川が支流という位置付けになっています。

 

利根川が常陸川とつながることによって水量が大幅に増加し、常陸川は銚子と関宿を結ぶ水運の大動脈としての役割を担うようになります。関宿はそれ以前から江戸川を通じて江戸と結ばれていました。

一方で、利根川東遷事業によって常陸川を含む利根川下流部では洪水位の上昇と流入土砂がもたらされ、水害が多発するようになりました。寛保2年(1742年)、天明6年(1786年)には大規模洪水により各所で堤防が決壊し、天明3年の浅間山の噴火では降灰による土砂堆積で川床が著しく上昇するなどの問題も起きました。こうした川床の浚渫工事に重点が置かれるようになるのは、明治・大正以降のことだそうです。


 

おはようございます。一昨日から昨日にかけて、関東北部では小規模な地震が続いています。地震の揺れは大きくても震度4程度ですが、続いているだけに心配にはなります。気象庁によれば、これらの地震の関連性は不明とのことですが、地震発生の正確なメカニズムが分からないだけに、不安は残るばかりです。NHKでは地震に関するドラマ仕立ての番組が放送されていますが、何か予兆のような関連性も感じざるを得ません。

 

さて、本日は前回の小貝川で話題に出ました「関東三大堰」について紹介しようと思います。利根川東遷事業の一環として鬼怒川と小貝川を常陸川に合流させ、小貝川流域の治水事業と新田開発を進めてきたことは、前回ご説明した通りです。その小貝川の瀬替えと伴に、灌漑用水として建設が進められたのが「福岡堰(ふくおかぜき)」、「岡堰(おかぜき)」、「豊田堰(とよたぜき)」の3つの堰で、関東三大堰と言われています。この3つの堰は江戸時代初期を代表する溜井(ためい)方式の堰であり、また規模の大きさからも関東地方有数の堰とされていました。これらの堰の建設にあたったのは、利根川東遷事業を担った関東郡代の伊奈半十郎忠治です。

 

この三大堰のうち、最大のものが福岡堰です。元和年間(1615年~1624年)の新田開発に伴い、寛永2年(1625年)に設けられた堰です。現在は茨城県つくばみらい市北山にありますが、当初は「山田沼堰」と言われるように北山の上流にある山田沼に設置されていました。この堰は、谷和原三万石の水田を潤していました。この山田沼堰が今の北山、当時の福岡地区に改設されたのは享保7年(1722年)のことで、それ以降、福岡堰と呼ばれるようになります。その後、明治19年(1886年)、大正12年(1923年)に改築が行われ、現在の堰は昭和46年(1971年)に再改築されたものです。貯水量275万トン、灌漑面積は小貝川下流左岸に広がる2,800ヘクタールに及んでいます。

 

福岡堰頭首工(とうしゅこう)〔取水口〕から元圦樋管(もといりひかん)〔堤防を横断する水路〕までの1.8キロメートルの堤には、約550本のソメイヨシノが植えられており、茨城県内でも有数の桜の名所になっています。

 

小貝川が鬼怒川と切り離された寛永6年(1629年)の翌年の寛永7年(1630年)に、相馬二万石の広大な新田を潤すために岡堰が設けられます。岡堰の始まりは、小貝川と鬼怒川の分離工事の際に築かれた小貝川を横断する土堰です。岡堰は福岡堰より下流で、ちょうど福岡堰と豊田堰の中間地点、現在の茨城県藤代町にあります。岡堰は小貝川の強い水流を変えるために、萱と竹を使った独自の工法である「伊奈流」が使われ、この工法が後々まで堤防・堰決壊の際にはかなり役立ったと言われています。岡堰においても、当初の場所から少し下流に新しく建設されたのが、現在稼働中のものです。

 

そして、茨城県利根町に設けられたのが小貝川最下流にある豊田堰です。この堰が最初に完成したのは寛文7年(1667年)のことで、当時の堰は現在のものより150メートル上流に設置されていました。豊田堰も灌漑用水の水源として周辺地域の農業生産に重要な役割を果たしてきました。現在の堰は昭和52年(1977年)に完成したもので、長さ275メートル、茨城県竜ケ崎市西部地域1,800ヘクタールに灌漑用水を供給しています。

 

 

おはようございます。昨日朝から降っていた雨も夜の帰宅することには止み、今日は晴天に恵まれるれ、気温も少し上昇するようです。昨日に続き、今日もまた外出、明日もまた外出と、なかなか落ち着いて座って仕事ができない状況です。結局、早朝きてやるか、残業してやるか、あるいはその両方か、という選択肢になってしまいます。そうなると、今の仕事をどう楽しんで自分のものにしていくかというポジティブな発想で取り組むしかありません。今日もまた残業の予感です。

 

さて、本日は「小貝川(こかいがわ)」について紹介したいと思います。小貝川は関東平野を北から南に流れる利根川水系の支流で一級河川です。全長111.8キロメートルは、利根川の支流の中で、鬼怒川に次ぐ第2位の長さを誇り、流域面積は1,043.1平方キロメートルにも及んでいます。

 

小貝川は、栃木県那須烏山市曲畑(そりはた)にある小貝ケ池(こかいがいけ)に源を発し、最初は田畑を潤す灌漑用水路としての小さな流れとして南に向かいます。徐々に川幅を広げながら茨城県に入り、五行川(ごぎょうがわ)〔勤行川(ごんぎょうがわ)〕や大谷川(おおやがわ)などの支流を合わせて、茨城県取手市及び利根町と千葉県我孫子市の境で利根川に合流します。かつて下流部分は、下総国と常陸国の国境になっていました。

 

小貝川は上流に山地を持たない平地河川であることから、頻繁に洪水が起こる「暴れ川」として知られています。古くは「小飼川」、「蚕養川」とも表記され、「前井川(まえいがわ)」や「幸田川(こうだがわ)」と呼ばれることもあります。縄文海進の時には現在の茨城県下妻市辺りまで入り江が湾入し、古鬼怒湾(香取海)を形成していましたが、その後鬼怒川や小貝川の土砂の堆積により古鬼怒湾は後退しました。また、川の氾濫などによる河道の変化も激しく、その跡は広大な氾濫原になっています。土砂により小貝川が堰き止められたときには「騰波ノ江(とばのえ)〔鳥羽の淡海(とばのうみ)〕」と呼ばれた湖を形成したこともありました。

 

近世以前、小貝川は鬼怒川と合流して常陸川に流れ込み、香取海から太平洋に通じていたことは、すでに紹介した通りです。利根川東遷事業の一環として、寛永6年(1629年)に水海道の南で鬼怒川と小貝川を分離して、台地を4キロメートルほど開削して鬼怒川を直接常陸川(利根川)に合流させる工事を行ったことはすでに述べた通りです。翌寛永7年(1630年)には戸田井〔取手市〕と羽根野〔利根町〕の間で取手台地を開削し、押付(おしつけ)〔利根町〕で小貝川を常陸川(利根川)に合流させました。これにより、それまで手付かずだった鬼怒川及び小貝川流域の低湿地の新田開発が進み、灌漑用として福岡堰、岡堰、豊田堰の関東三大堰が設けられました。

 

小貝川の語源については、流域に貝塚があり、小貝がたくさん採れたからだという説、常陸国と下総国との国境を流れていたので「国境(こっかい)」が「こかい」になったという説、アイヌ語の古語で「膝までの川」という意味からきたという説など、諸説あります。

 

高見澤

 

おはようございます。12月に入り、今年も残すところ1カ月を切りました。今週金曜日には東藝術倶楽部の忘年会、日曜日には日中官民合同で開催する「日中省エネ・環境総合フォーラム」、来週9日月曜日から14日土曜日まで北京出張、そして22日日曜日から26日木曜日まで今度は天津出張、27日納会があって、いよいよ年末年始の休暇に入ります。結局、今年も仕事に振り回された1年ということで、また新たな年を迎えることになりそうです。

 

さて、本日は「鬼怒川(きぬがわ)」について紹介しようと思います。鬼怒川は栃木県北西部と群馬県との県境近くにある鬼怒沼山(きぬぬまやま)東麓の日光市鬼怒沼に源を発し、栃木県中央平地、茨城県西部を南流して茨城県南部の守谷市と千葉県柏市及び野田市との境界付近で利根川に流入する利根川水系の一級河川です。全長は176.7キロメートルと利根川支流最長を誇り、流域面積は1,760.6平方キロメートルで、利根川最大の支流として位置づけられています。

 

鬼怒川の上流部は火山地帯で深い山間の渓谷を流れ、流域には鬼怒川温泉をはじめとする多くの温泉地が点在し、中流部は氾濫原(はんらんげん)と呼ばれるかつての洪水が多発した低地部分をゆったりと流れています。中流域には公園などが設けられ、釣りやスポーツなどを楽しむ観光地にもなっています。鬼怒川の豊富な水量を分かつために、放水路兼用水路の役割を担う西鬼怒川に分流する部分もあり、この豊富で上質な水は栃木県諸都市の水源として上水、灌漑用水として利用されています。

 

現在は利根川の支流となっている鬼怒川ですが、江戸時代初期までは太平洋に注ぐ東関東の本流の水系で、常陸川と共に香取海(かとりのうみ)〔古鬼怒湾(こきぬわん)〕へと注ぎ込んでいました。香取海は、江戸時代前まで下総国と常陸国の国境に存在していた内海で、関東平野東部に太平洋から湾入した地形を形成していました。延暦2年(805年)、香取海への河口に近い氾濫原の東南端で鬼怒川を渡船する経路が、下総国から常陸国へと入る東海道として整備されています。現在、香取海は利根川の下流部となっています。

 

鬼怒川は、中世・近世を通じて河川舟運(鬼怒川舟運)に利用されていました。水海道(みつかいどう)〔茨城県常総市〕は商港として栄え、中流域の阿久津河岸(あくつかし)〔栃木県さくら市〕は、会津からの廻米や木炭などの積替え港として賑わっていました。

 

寛永6年(1629年)、利根川東遷事業の一環として鬼怒川と小貝川を分離させ鬼怒川の川道を変え、常陸川との合流点を30キロメートルほど上流に移動させました。以前にも説明した通り、もともと利根川や渡良瀬川は江戸湾に注いでいましたが、利根川東遷事業によって鬼怒川とともに常陸川を通じて香取海に流れ込むようになりました。以降、鬼怒川は利根川の支流として扱われるようになっています。

 

鬼怒川の名称は、実は明治9年(1876年)以降使われるようになり、それ以前には「衣川(きぬがわ)」と表記されていたとのことです。明治時代には「絹川」とも表記されることもありました。奈良時代に編纂された『常陸国風土記』には「毛野河」と称される常陸国各郡を示す名称が見られ、平安初期の『続日本紀』には「毛野川(けぬがわ)」が下総国と常陸国の国境を成すとの記録が残されています。また、鬼怒川の語源として、この地方を治めていた豪族の「紀氏」に因む「紀の川」という説、アイヌ語の古語で「葦の野原を流れる川」を意味するとの説もあります。

 

日光東照宮の輪番記録によると、天和3年(1683年)に日光大地震が起きた際、鬼怒川支流の男鹿川(おじかがわ)が現在の海尻橋付近で隣接する葛老山(かつろうやま)の崩壊で堰き止められ「旧五十里湖(きゅういかりこ)」が出現したそうです。その後享保8年(1723年)の暴風雨により決壊し、死者1,200人を出す土石流が発生するなど、下流地域に大きな被害がもたらされとのことです。

 

高見澤

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