東藝術倶楽部瓦版 20191203:【江戸の川その21】氾濫を鎮め新田開発-「小貝川」

 

おはようございます。昨日朝から降っていた雨も夜の帰宅することには止み、今日は晴天に恵まれるれ、気温も少し上昇するようです。昨日に続き、今日もまた外出、明日もまた外出と、なかなか落ち着いて座って仕事ができない状況です。結局、早朝きてやるか、残業してやるか、あるいはその両方か、という選択肢になってしまいます。そうなると、今の仕事をどう楽しんで自分のものにしていくかというポジティブな発想で取り組むしかありません。今日もまた残業の予感です。

 

さて、本日は「小貝川(こかいがわ)」について紹介したいと思います。小貝川は関東平野を北から南に流れる利根川水系の支流で一級河川です。全長111.8キロメートルは、利根川の支流の中で、鬼怒川に次ぐ第2位の長さを誇り、流域面積は1,043.1平方キロメートルにも及んでいます。

 

小貝川は、栃木県那須烏山市曲畑(そりはた)にある小貝ケ池(こかいがいけ)に源を発し、最初は田畑を潤す灌漑用水路としての小さな流れとして南に向かいます。徐々に川幅を広げながら茨城県に入り、五行川(ごぎょうがわ)〔勤行川(ごんぎょうがわ)〕や大谷川(おおやがわ)などの支流を合わせて、茨城県取手市及び利根町と千葉県我孫子市の境で利根川に合流します。かつて下流部分は、下総国と常陸国の国境になっていました。

 

小貝川は上流に山地を持たない平地河川であることから、頻繁に洪水が起こる「暴れ川」として知られています。古くは「小飼川」、「蚕養川」とも表記され、「前井川(まえいがわ)」や「幸田川(こうだがわ)」と呼ばれることもあります。縄文海進の時には現在の茨城県下妻市辺りまで入り江が湾入し、古鬼怒湾(香取海)を形成していましたが、その後鬼怒川や小貝川の土砂の堆積により古鬼怒湾は後退しました。また、川の氾濫などによる河道の変化も激しく、その跡は広大な氾濫原になっています。土砂により小貝川が堰き止められたときには「騰波ノ江(とばのえ)〔鳥羽の淡海(とばのうみ)〕」と呼ばれた湖を形成したこともありました。

 

近世以前、小貝川は鬼怒川と合流して常陸川に流れ込み、香取海から太平洋に通じていたことは、すでに紹介した通りです。利根川東遷事業の一環として、寛永6年(1629年)に水海道の南で鬼怒川と小貝川を分離して、台地を4キロメートルほど開削して鬼怒川を直接常陸川(利根川)に合流させる工事を行ったことはすでに述べた通りです。翌寛永7年(1630年)には戸田井〔取手市〕と羽根野〔利根町〕の間で取手台地を開削し、押付(おしつけ)〔利根町〕で小貝川を常陸川(利根川)に合流させました。これにより、それまで手付かずだった鬼怒川及び小貝川流域の低湿地の新田開発が進み、灌漑用として福岡堰、岡堰、豊田堰の関東三大堰が設けられました。

 

小貝川の語源については、流域に貝塚があり、小貝がたくさん採れたからだという説、常陸国と下総国との国境を流れていたので「国境(こっかい)」が「こかい」になったという説、アイヌ語の古語で「膝までの川」という意味からきたという説など、諸説あります。

 

高見澤

2021年1月

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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年12月 3日 11:09に書いたブログ記事です。

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