東藝術倶楽部瓦版 20191216:【江戸の川その24】武蔵国最古の農業用水の一つ-「備前渠用水」

おはようございます。一昨日、出張先の北京から戻ってきました。先々週金曜日12月6日に東藝術倶楽部の忘年会に、終了直前に駆け込むことができ、池田顧問、キリロラ顧問、黒木代表をはじめとする皆さんに何とかご挨拶ができた状態でした。その週末はホテルニューオータニで開催した日中省エネ・環境総合フォーラムの事務局を務め、9日月曜日から北京出張というハードなスケジュールをこなし、日曜日の昨日も出張報告の作成に努めていました。そして、今日からまた新たな一週間が始まります。皆様からも当方の身体に対するお気遣いの言葉をいただき、感謝しております。健康には十分気を付けて、積極的にそして前向きに何事にも取り組んでいきたいと思います。

 

さて、本日は「備前渠用水(びぜんきょようすい)」について紹介しようと思います。備前渠用水は、埼玉県で最も古い農業用水の一つとされ、慶長9年(1604年)に江戸幕府の命により、関東郡代の伊奈備前守忠次によって開削されたものです。「備前堀」、「備前渠」、「備前渠川」などとも呼ばれています。

 在、この備前渠用水は埼玉県本庄市で利根川より取水し、深谷市、熊谷市を流れて福川に合流して利根川に流れ込みます。途中で御陣馬川(ごじんばがわ)や小山川(こやまがわ)と流路を共有する区間もあります。総延長は約23キロメートル、最大通水量は毎秒約9立方メートル、利根川右岸の約1,400ヘクタールの水田に水を供給しています。

備前渠用水は、当初は烏川(からすがわ)が利根川に合流する地点から取水していましたが、寛保2年(1742年)に洪水によって烏川の流路が変わり元圦(もといり)と呼ばれる取水口が壊滅、また、明和4年(1767年)の洪水でも用水路が壊滅的な被害を受けるなど、困難な道のりを歩んできました。加えて天明3年の浅間山の大噴火では、火山灰や溶岩の堆積によって利根川の河床が異常に高くなり、備前渠用水にも大量の土砂が流入して用水路が埋没してしまい、水害の危険性が高まったことから、寛永5年(1793年)に備前渠用水の元圦は封鎖されてしまいました。このため、下流域に用水が供給されず、水争いが起こります。その後も用水不足のために、文政元年(1818年)頃には米の不作が続くようになりました。

備前渠用水の元圦の復旧工事が行われて用水が開通したのは元圦締切りから35年後の文政11年(1828年)のことです。工事開始後43日で通水が完了したとのことで、これを記念して天保4年(1833年)に「備前渠再興記」の石碑が建てられています。元圦は利根川や烏川の乱流域に位置していることから、その後二度も元圦変更の工事が行われています。

 前渠用水の名前は、伊奈備前守忠次から名付けられたことは一目で分かるでしょう。「渠(きょ)」とは中国から来た言葉で、人工の河川を指します。開削当初の供給規模としては、深谷領3,000石、幡羅郡(はらぐん)10,000石、忍領20,000石、羽生領48,000石の用水路で、用水路の施設管理維持のための農民組織「組合」は一つでした。それが万治2年(1656年)に深谷領は矢島堰〔小山川〕、幡羅郡は仁手(にって)堰〔利根川〕、忍領と羽生領は日向(ひなた)堰〔福川〕の3つの組合に分けられています。その後、忍領と羽生領は「北河原(きたがわら)用水」として独立しています。

尚、武蔵国北部において備前渠用水よりも歴史が古いと思われる用水路には、長楽(ながらく)用水、瓦曽根溜井(かわらぞねためい)、六堰用水などがあります。

 多の洪水被害に見舞われながらも、武蔵国北部の田畑を潤してきた備前渠用水ですが、いまでもその水は農作物の生産に活用され、我々の生活を支えています。

おはようございます。一昨日、出張先の北京から戻ってきました。先々週金曜日12月6日に東藝術倶楽部の忘年会に、終了直前に駆け込むことができ、池田顧問、キリロラ顧問、黒木代表をはじめとする皆さんに何とかご挨拶ができた状態でした。その週末はホテルニューオータニで開催した日中省エネ・環境総合フォーラムの事務局を務め、9日月曜日から北京出張というハードなスケジュールをこなし、日曜日の昨日も出張報告の作成に努めていました。そして、今日からまた新たな一週間が始まります。皆様からも当方の身体に対するお気遣いの言葉をいただき、感謝しております。健康には十分気を付けて、積極的にそして前向きに何事にも取り組んでいきたいと思います。

 

さて、本日は「備前渠用水(びぜんきょようすい)」について紹介しようと思います。備前渠用水は、埼玉県で最も古い農業用水の一つとされ、慶長9年(1604年)に江戸幕府の命により、関東郡代の伊奈備前守忠次によって開削されたものです。「備前堀」、「備前渠」、「備前渠川」などとも呼ばれています。

在、この備前渠用水は埼玉県本庄市で利根川より取水し、深谷市、熊谷市を流れて福川に合流して利根川に流れ込みます。途中で御陣馬川(ごじんばがわ)や小山川(こやまがわ)と流路を共有する区間もあります。総延長は約23キロメートル、最大通水量は毎秒約9立方メートル、利根川右岸の約1,400ヘクタールの水田に水を供給しています。

前渠用水は、当初は烏川(からすがわ)が利根川に合流する地点から取水していましたが、寛保2年(1742年)に洪水によって烏川の流路が変わり元圦(もといり)と呼ばれる取水口が壊滅、また、明和4年(1767年)の洪水でも用水路が壊滅的な被害を受けるなど、困難な道のりを歩んできました。加えて天明3年の浅間山の大噴火では、火山灰や溶岩の堆積によって利根川の河床が異常に高くなり、備前渠用水にも大量の土砂が流入して用水路が埋没してしまい、水害の危険性が高まったことから、寛永5年(1793年)に備前渠用水の元圦は封鎖されてしまいました。このため、下流域に用水が供給されず、水争いが起こります。その後も用水不足のために、文政元年(1818年)頃には米の不作が続くようになりました。

 

備前渠用水の元圦の復旧工事が行われて用水が開通したのは元圦締切りから35年後の文政11年(1828年)のことです。工事開始後43日で通水が完了したとのことで、これを記念して天保4年(1833年)に「備前渠再興記」の石碑が建てられています。元圦は利根川や烏川の乱流域に位置していることから、その後二度も元圦変更の工事が行われています。

 備前渠用水の名前は、伊奈備前守忠次から名付けられたことは一目で分かるでしょう。「渠(きょ)」とは中国から来た言葉で、人工の河川を指します。開削当初の供給規模としては、深谷領3,000石、幡羅郡(はらぐん)10,000石、忍領20,000石、羽生領48,000石の用水路で、用水路の施設管理維持のための農民組織「組合」は一つでした。それが万治2年(1656年)に深谷領は矢島堰〔小山川〕、幡羅郡は仁手(にって)堰〔利根川〕、忍領と羽生領は日向(ひなた)堰〔福川〕の3つの組合に分けられています。その後、忍領と羽生領は「北河原(きたがわら)用水」として独立しています。

 尚、武蔵国北部において備前渠用水よりも歴史が古いと思われる用水路には、長楽(ながらく)用水、瓦曽根溜井(かわらぞねためい)、六堰用水などがあります。

多の洪水被害に見舞われながらも、武蔵国北部の田畑を潤してきた備前渠用水ですが、いまでもその水は農作物の生産に活用され、我々の生活を支えています。

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このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2019年12月16日 09:25に書いたブログ記事です。

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