おはようございます。今日の東京都心は朝から雨が降っています。江戸城北の丸にある田安門周辺のイチョウ並木もすっかり葉が落ちて、冬の様相を呈しています。例年に比べ、冬の到来が遅いように感じるのは気のせいでしょうか? 今年も残すところあと2週間となり、世間ではクリスマスや正月を迎える準備が進んでいるかと思いますが、当方の仕事はなかなかそれを許してはくれません。明日は所用のため、瓦版をお休みさせていただきます。
さて、本日は「葛西用水(かさいようすい)」について紹介していきます。葛西用水は別名「幸手用水(さってようすい)」とも呼ばれ、埼玉県東部の平野を灌漑する大規模農業用水路で、灌漑面積は8,000ヘクタールに及んでいます。この用水の末端は東京都足立区まで達し、葛飾区で荒川放水路に注いでいます。埼玉・東京を流れる「見沼代用水」、愛知県にある「明治用水」とともに、「日本三大農業用水」と称され、疎水百選にも指定されています。
江戸時代初期、慶長年間(1596年~1610年)には「亀有溜井(かめありためい)」、「瓦曽根溜井(かわらそねためい)」、「葛西井堀(かさいいぼり)」などの溜池が農業用水として利用されていました。その後、利根川東遷事業などの治水・利水工事が進むことによって新田開発が進むと用水路の整備が追い付いていかず、用水不足が生じるようになります。それを解消するために、寛永年間(1624年~1643年)に、元荒川と大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)をつなぐ逆川(さかがわ)が開削されますが、それでも用水不足が続きます。そこで設けられるようになったのが、葛西用水だったのです。
万治3年(1660年)、関東郡代の伊奈忠克(いなただかつ)は、利根川の本川俣(ほんかわまた)〔埼玉県羽生市〕に取水口を設けて、川口圦を経て「琵琶溜井(びわためい)」〔埼玉県久喜市・幸手市〕に入り、大落古利根川に通じる延長25キロメートルの幸手領用水を開削します。これが利根川から瓦曽根溜井に至る長大な葛西用水路で、埼玉県東部地域の水田を灌漑する農業用水路として成立しました。
享保4年(1719年)、関東郡代・伊奈忠逵(いなただみち)が上川俣〔羽生市〕に葛西用水元圦を設置してに日向堀を通して利根川の水を引き、羽生領南方用水を開発します。これで葛西用水体系が基本的に完成しました。享保13年(1728年)には、葛飾郡金杉村〔埼玉県松伏(まつぶし)町〕から深井新田〔吉川市〕まで、及び樋ノ口村・小向村〔三郷市〕の開削が始まります。これにより、庄内古川、葛飾郡加藤村〔吉川市〕まで延長され、江戸川に排水されるようになりました。そして天保12年(1841年)、葛西用水の水量を増やすために埼玉郡川口村〔加須市〕に堰が設けられました。
このように、葛西用水は徐々に範囲が広げられていき、昭和に入ってからも整備が続き、現在に至っています。
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