東藝術倶楽部瓦版 20191219:【江戸の川その26】高度な測量技術が使われた「見沼代用水」

おはようございます。今朝は少し暖かく感じる東京都心ですが、昨日のような快晴には恵まれないようです。昨日は事務所を不在にしていたせいか、机の上には決裁書類が山積み。これから一つ一つ処理しなければなりませんが、午前中はまた外出し、お昼を挟んで午後に事務所に戻ります。そこからまた外部の人を交えての会議が二つ続き、夜は関係先との会食という流れになっています。処理しなければならない報告書は溜まる一方で、来週はまた中国出張が待ち構えています。

 

さて、本日は「見沼代用水(みぬまだいようすい)」について紹介してみましょう。見沼代用水は、現在の埼玉県東部から南部にかけての水田地帯を流れる関東平野最大の農業用水とされています。葛西用水のところでも紹介したように、日本三大農業用水の一つにも数えられている重要な用水路です。

 

幹線水路延長は84キロメートル、1万7,000ヘクタールに及ぶ農地を灌漑し、埼玉県行田市を流れる利根川の利根大堰より取水し、ほぼ南に流れて川口市内で荒川に合流します。途中で元荒川や綾瀬川と交差するほか、上尾市内で「見沼代用水東縁(ひがしべり)」と「見沼代用水西縁(にしべり)」の二手に分かれます。東縁は見沼溜井の東側を流れ川口市から東京都に至り、西縁は見沼溜井の西側を流れ大宮台地を切って高沼用水として荒川に合流しています。元荒川との交差地点では、「伏越(こせこし、ふせごし)」と呼ばれる逆サイフォンの原理で川を跨いで水を送る手法が採られ、綾瀬川との交差地点では「懸渡井(かけとい)〔懸樋(かけひ)〕」と呼ばれる木製の樋を支柱で支えて川を跨いで水を送る手法が採用されていました。

 

この見沼代用水の整備を行ったのは、江戸幕府勘定吟味役の井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべいためなが)です。弥惣兵衛は、もともとは紀州藩士でしたが、8代将軍吉宗に従って幕臣となり、勘定吟味役の職が与えられました。吉宗による享保の改革が始まると、幕府財政立て直しのための増収策として新田開発が本格化します。幕府直轄の武蔵国でも新田の開発が活発化し、武蔵国東部〔さいたま市東部〕に存在していた見沼溜井〔三沼溜井、箕沼溜井〕などの灌漑用の溜井を開拓することが決められ、代用水となる農業用水を利根川から供給することになりました。

 

荒川の瀬替えや利根川東遷事業により、元の流域周辺の水不足の懸念を払しょくするため、寛永6年(1629年)に伊奈忠治が天領浦和領内の川筋〔現在の芝川〕を堰き止める形で、長さ8町(約870メートル)の堤防「八丁堤〔八町堤〕」を築き、見沼溜井が作られました。この見沼溜井は土砂の流入で貯水能力が次第に低下、延宝3年(1675年)に溜井の一部が入江新田として干拓されると水不足が更に深刻化していきました。こうした状況の中で、享保7年(1722年)に、享保の改革による新田開発奨励策が打ち出されたのです。

 

享保10年(1725年)、幕府は弥惣兵衛に対して見沼溜井の干拓を命じます。翌享保11年(1726年)には普請役・保田太左衛門による測量が始められました。見沼溜井の代用水として、埼玉郡辺りの利根川から取水して足立郡に抜ける20里(約80キロメートル)の幹水路のほか、高沼用水路など多数の分流路の開削も計画されました。見沼代用水の名称は、見沼溜井の水の代用という意味からきています。

 

取水場所は下中条村〔行田市〕で、現在の利根大堰の地点とほぼ同じで、この近辺の利根川は年間を通じて水深が安定しており、堤も決壊したことがないという好条件が揃った場所でした。代用水測量は上流の利根川取水口からと、見沼溜井から流れ出る芝川からの二手に分かれて行われました。「水盛り」と呼ばれる水準測量によって行われ、30間(約55メートル)で3寸(約9センチメートル)の傾斜〔約1/611の勾配〕という極めて精度の高い工法が使われました。水路の選択も既存の水田は避けて、できるだけ地盤の固い場所を選んでいたようです。

 

享保12年(1727年)9月、見沼溜井周辺の農業用水の需要が減った時期に見沼代用水路の開削を始めました。工事は水路沿いの村々に請負を割当ましたが、必要な資機材は幕府が提供し、技能者も幕府が派遣しました。着工から約5か月後の享保13年(1728年)2月に工事は完成、翌3月には用水路の利用が始まりました。この建設に関わった作業員は延べ90万人、幕府が支出した工事費用は総額約2万両でしたが、これにより新たに1,175町(約1,160ヘクタール)の新田が開発され、毎年5,000石近い年貢米が幕府の蔵に納められたとのことです。

おはようございます。今朝は少し暖かく感じる東京都心ですが、昨日のような快晴には恵まれないようです。昨日は事務所を不在にしていたせいか、机の上には決裁書類が山積み。これから一つ一つ処理しなければなりませんが、午前中はまた外出し、お昼を挟んで午後に事務所に戻ります。そこからまた外部の人を交えての会議が二つ続き、夜は関係先との会食という流れになっています。処理しなければならない報告書は溜まる一方で、来週はまた中国出張が待ち構えています。

 

さて、本日は「見沼代用水(みぬまだいようすい)」について紹介してみましょう。見沼代用水は、現在の埼玉県東部から南部にかけての水田地帯を流れる関東平野最大の農業用水とされています。葛西用水のところでも紹介したように、日本三大農業用水の一つにも数えられている重要な用水路です。

 

幹線水路延長は84キロメートル、1万7,000ヘクタールに及ぶ農地を灌漑し、埼玉県行田市を流れる利根川の利根大堰より取水し、ほぼ南に流れて川口市内で荒川に合流します。途中で元荒川や綾瀬川と交差するほか、上尾市内で「見沼代用水東縁(ひがしべり)」と「見沼代用水西縁(にしべり)」の二手に分かれます。東縁は見沼溜井の東側を流れ川口市から東京都に至り、西縁は見沼溜井の西側を流れ大宮台地を切って高沼用水として荒川に合流しています。元荒川との交差地点では、「伏越(こせこし、ふせごし)」と呼ばれる逆サイフォンの原理で川を跨いで水を送る手法が採られ、綾瀬川との交差地点では「懸渡井(かけとい)〔懸樋(かけひ)〕」と呼ばれる木製の樋を支柱で支えて川を跨いで水を送る手法が採用されていました。

 

この見沼代用水の整備を行ったのは、江戸幕府勘定吟味役の井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべいためなが)です。弥惣兵衛は、もともとは紀州藩士でしたが、8代将軍吉宗に従って幕臣となり、勘定吟味役の職が与えられました。吉宗による享保の改革が始まると、幕府財政立て直しのための増収策として新田開発が本格化します。幕府直轄の武蔵国でも新田の開発が活発化し、武蔵国東部〔さいたま市東部〕に存在していた見沼溜井〔三沼溜井、箕沼溜井〕などの灌漑用の溜井を開拓することが決められ、代用水となる農業用水を利根川から供給することになりました。

 

荒川の瀬替えや利根川東遷事業により、元の流域周辺の水不足の懸念を払しょくするため、寛永6年(1629年)に伊奈忠治が天領浦和領内の川筋〔現在の芝川〕を堰き止める形で、長さ8町(約870メートル)の堤防「八丁堤〔八町堤〕」を築き、見沼溜井が作られました。この見沼溜井は土砂の流入で貯水能力が次第に低下、延宝3年(1675年)に溜井の一部が入江新田として干拓されると水不足が更に深刻化していきました。こうした状況の中で、享保7年(1722年)に、享保の改革による新田開発奨励策が打ち出されたのです。

 

享保10年(1725年)、幕府は弥惣兵衛に対して見沼溜井の干拓を命じます。翌享保11年(1726年)には普請役・保田太左衛門による測量が始められました。見沼溜井の代用水として、埼玉郡辺りの利根川から取水して足立郡に抜ける20里(約80キロメートル)の幹水路のほか、高沼用水路など多数の分流路の開削も計画されました。見沼代用水の名称は、見沼溜井の水の代用という意味からきています。

 

取水場所は下中条村〔行田市〕で、現在の利根大堰の地点とほぼ同じで、この近辺の利根川は年間を通じて水深が安定しており、堤も決壊したことがないという好条件が揃った場所でした。代用水測量は上流の利根川取水口からと、見沼溜井から流れ出る芝川からの二手に分かれて行われました。「水盛り」と呼ばれる水準測量によって行われ、30間(約55メートル)で3寸(約9センチメートル)の傾斜〔約1/611の勾配〕という極めて精度の高い工法が使われました。水路の選択も既存の水田は避けて、できるだけ地盤の固い場所を選んでいたようです。

 

享保12年(1727年)9月、見沼溜井周辺の農業用水の需要が減った時期に見沼代用水路の開削を始めました。工事は水路沿いの村々に請負を割当ましたが、必要な資機材は幕府が提供し、技能者も幕府が派遣しました。着工から約5か月後の享保13年(1728年)2月に工事は完成、翌3月には用水路の利用が始まりました。この建設に関わった作業員は延べ90万人、幕府が支出した工事費用は総額約2万両でしたが、これにより新たに1,175町(約1,160ヘクタール)の新田が開発され、毎年5,000石近い年貢米が幕府の蔵に納められたとのことです。

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このブログ記事について

このページは、東藝術倶楽部広報が2019年12月19日 09:40に書いたブログ記事です。

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