東藝術倶楽部瓦版 20191206:【江戸の川その23】江戸河川舟運の大動脈-「常陸川」

はようございます。本日は東藝術倶楽部の忘年会です。池田顧問、キリロラ顧問も参加されての久しぶりの集まりです。どのようなお話が飛び出すか、楽しみです。この週末は、梶原経済産業大臣、小泉環境大臣が参加する日中省エネ・環境総合フォーラムが東京のホテルニューオータニで開催されます。私の所属する組織も、経済産業省とともに日本側主催者として事務局を務めています。日中合わせて800名を超える関係者が集まります。その大イベントが終わったら、翌日の月曜日から土曜日まで北京出張です。今回の出張は医療機器及び医薬品の関連のイベント参加と実態調査です。マクロ経済から始まり、ビジネス環境、省エネ・環境、自動運転、そして医療機器・医薬と異なる分野を取り扱うので、その知識を頭に詰め込むだけでも大変な作業です。ということで、来週は1週間、瓦版も休刊致します。ご理解のほど、よろしくお願い致します。

 

さて、本日は「常陸川(ひたちがわ)」について紹介したいと思います。常陸川は、かつて下総国を東に流れ香取海に注いでいた川で、現在の利根川下流部にあたる部分です。平安時代には「東の広河(あずまのひらかわ)」、「広潟(ひらかた)」などと呼ばれ、常陸川と称されるようになったのは室町時代になってからのようです。

 

もともと常陸川は、下総国西部の猿島台地(茨城県坂東市)などから南に流れ出す小河川や沼沢の水が集まって東に流れていました。栃木県小山市から流れてくる宮戸川(みやとがわ)や大川などが流れ込んでいたかつての「長井戸沼(ながいどぬま)」〔現在は干拓〕が常陸川の流頭部にあたります。その後、南岸の関宿と北岸の境町との間を通って東に流れ、一ノ谷沼(いちのやぬま)、鵠戸沼(くぐいどぬま)、浅間沼、菅生沼(すがおぬま)などからの水を合流して川幅を広げていました。

 

このように香取海に至る常陸川の流路は低湿地帯で多くの沼が存在していました。途中、現在の茨城県守谷市、取手市、千葉県柏市の境辺りには「藺沼(いぬま)」という細長い湿地帯があり、そこをぬけると古利根川の流路を通って鬼怒川と合流し、香取沼に流れ込んでいました。常陸川自体は流域も大きくなく、水量は多くはありませんでした。

 

江戸時代に入り、利根川東遷事業が始まって常陸川の流頭部が開削され、赤堀川が完成すると利根川の水が一部常陸川に流れ込みます。これにより常陸川の上流の水量が大幅に増加しました。この工事が完成したのが承応3年(1654年)のことです。これに先立ち、鬼怒川〔寛永6年(1629年)〕や小貝川〔寛永7年(1630年)〕と常陸川との合流点の付け替えも行われていたことは、先に説明した通りです。

 

利根川の流れは、利根川東遷事業の後も当初は権現堂川から江戸川への流量が多かったのですが、次第に常陸川への流量が多くなります。その後、昭和3年(1928年)に権現堂川が廃止され、現在では常陸川が利根川の本流、江戸川が支流という位置付けになっています。

 

利根川が常陸川とつながることによって水量が大幅に増加し、常陸川は銚子と関宿を結ぶ水運の大動脈としての役割を担うようになります。関宿はそれ以前から江戸川を通じて江戸と結ばれていました。

一方で、利根川東遷事業によって常陸川を含む利根川下流部では洪水位の上昇と流入土砂がもたらされ、水害が多発するようになりました。寛保2年(1742年)、天明6年(1786年)には大規模洪水により各所で堤防が決壊し、天明3年の浅間山の噴火では降灰による土砂堆積で川床が著しく上昇するなどの問題も起きました。こうした川床の浚渫工事に重点が置かれるようになるのは、明治・大正以降のことだそうです。


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このページは、東藝術倶楽部広報が2019年12月 7日 12:06に書いたブログ記事です。

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