2020年1月アーカイブ

おはようございます。中国の新型コロナウイルス感染に対して、いよいよWHOが「国際緊急事態」宣言を発表しました。ここ数日は1,000人規模で増え続ける中国での感染者数は8,000人を超え、171人が死亡、日本でも感染者が14人に達しています。米中対立や香港のデモの話題は影が薄くなり、中国関連のニュースはこのウイルス問題で持ち切りです。このニュースの裏で一体何が起きているのでしょうか? 来週月曜日、火曜日は朝から所用があり、瓦版もお休みさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は「上下之割用水(かみしものわりようすい)」について紹介しようと思います。江戸時代、隅田川東側の用水確保のために、「小合溜井(こあいためい)」を水源とする用水路が開削されました。これが上下之割用水で、「大用水」、「大井堀(おおいぼり)」とも呼ばれています。

 

小合溜井は、享保14年(1729年)に八代将軍徳川吉宗の命により、紀州藩士・井沢弥忽兵衛(いざわやそべい)が古利根川の一部を堰き止めて作った用水池です。今の東京都葛飾区と埼玉県三郷市の県境〔葛飾区水元〕に位置しています。江戸川区近辺の村々は、江戸時代を通じて羽生領川俣用水組に属していましたが、流末であったため、そもそも用水供給が安定していませんでした。この用水池を作ったきっかけは、前年の享保13年(1728年)に発生した水害で、灌漑用水確保とともに水害防止も設置する目的の一つとなっていました。

 

下小合村にある小合溜井の圦樋(水門)から引かれた上下之割用水は南側に流れ、新宿(にいじゅく)〔葛飾区新宿四丁目〕で東側に「小岩用水」を振り分け、本流は少し下った曲金村(まがりかねむら)〔葛飾区高砂七丁目〕で「東井堀(ひがしいぼり)」〔東用水〕を分水します。その後、細田字三角〔葛飾区細田三丁目付近〕で「中井堀(なかいぼり)」と「西井堀(にしいぼり)」に分かれます。

小岩用水は、江戸川区内で上小岩、中小岩、下小岩に至り江戸川に合流していました。東井堀は松本、鹿骨(ししぼね)を貫いて谷河内(やごうち)、南篠崎などの境界を下って、前野から江戸川に合流していました。中井堀は本一色(ほんいっしき)を二分しながら大杉を経て春江と一之江の境界を流れて新川(しんかわ)につながり、西井堀は西小松川から逆井(さかさい)へと南下して中川に注いでいました。しかし、これらの用水は供給が十分であったとはいえず、渇水期には水不足になやまされていたようです。

 

主として農業用排水路としても利用されていた上下之割用水も今ではその役割を終え、ほとんどが暗渠になっています。

はようございます。今朝、日本時間の午前4時10分頃に、中米ジャマイカの北西沖のカリブ海でマグネチュード7.7の地震が起き、津波の発生する恐れがあるとのことです。日本には直接影響があるわけではありませんが、気になる情報です。中国で発生した新型ウイルスによる感染症で、周辺都市全体が閉鎖されている武漢市で、滞在している日本人を帰国させるためのチャーター機第1便が、本日武漢を出発するとのことです。その後も450人ほどいる帰国希望者のために、引き続きチャーター機の手配を進めています。明日は朝食懇談会出席のため、瓦版はお休みします。ご了承ください。

さて、本日は「曳舟川(ひきふねがわ)」について紹介したいと思います。曳舟川は、東京都葛飾区から墨田区に入った葛西用水の川筋で、かつて隅田川の東側に位置する向島辺り、今の京成押上線に沿ってその西側を流れていました。江戸時代の地名で言えば「請地村(うけじむら)」や「須崎村」を経て、「小梅村」〔墨田区〕で大横川に合流していました。

そもそも曳舟川が開削されたのは明暦3年(1657年)の大火の後、徳川幕府が万治2年(1659年)に本所開拓に伴う上水を整備したことが始まりと言われています。もともとは「本所(亀有)上水」として整備されたもので、これについては「江戸の六上水」(http://azuma-geijutsu.com/info/azu-blog/2016/06/-20160610.html)のところで簡単に紹介しています。利根川水系の元荒川の一部を堰き止めて造った「瓦曽根溜井(かわらそねためい)」〔埼玉県越谷市〕を水源とし、葛西用水に並行して南下するように開削されます。この上水は現在の埼玉県草加市、八潮市を経て東京都足立区、葛飾区、墨田区へと続きます。墨田区内では東向島、押上、向島を経て北十間川と交差して、大横川に並行して法恩寺際まで全長約23キロメートルとなっていました。ここから地中に埋設した木製の懸樋(かけひ)によって分水し、本所、深川地区内に供給されていました。一般に、瓦曽根溜井から亀有(葛飾区)までを葛西用水、亀有から小梅までを曳舟川と呼んでいます。

しかし、この上水も享保7年(1722年)に廃止されます。その理由は水源との高低差がないために水量不足となり、度重なる水害によって上水が汚染されてしまったからです。また、本所地区では徐々に井戸も掘られるようになっていたことも、その要因の一つです。上水廃止に伴い、北十間川から法恩寺際までは埋め戻されましたが、小梅以北はそのまま川として残されました。

曳舟川の名称は、舟に人を乗せて曳いていた曳舟に由来しています。江戸後期から明治初め頃にかけて、陸上交通と水上交通の合わせ技として曳舟はよく使われていました。江戸市中から下総、常陸方面に向かう旅人は少なくありませんでした。特に亀有村(葛飾区)から小梅村(墨田区)までの約7.4キロメートルは農作物の輸送舟や物見遊山の旅人が4、5人乗れる「サッパコ」と呼ばれる小舟の先端に綱を付け、その綱を人が土手を歩いて引いていました。


江戸時代には歌川広重の「江戸名所百景」にも描かれるほどの風光明媚な曳舟川でしたが、明治末期の荒川放水路の開削による河川が分断され、更には大正期以降は流域の都市化に伴って汚染が広がり、戦後の高度成長期にはメッキ工場からの排水が加わり瀕死の状態になっていました。その後、排水規制などによって水質は改善されたものの、現在は埋め立てられて「曳舟川通り」と呼ばれる道路になっています。

おはようございます。今朝の東京は、昨日からの雨が降り続いています。東京都心は雪にはならなかったものの、冷たい風が吹いて、この私でも寒さを感じる状態です。普段はマフラーなどしないのですが、さすがに今朝は首に巻いてきました。これから局地的には雷雨や強い雨が予想されるなか、午後には日本貿易会への訪問が予定されています。

 

さて、本日は「日本橋川(にほんばしがわ)」について紹介しようと思います。日本橋川は、荒川一級水系に属する一級河川で、神田川を水源に東京都千代田区と中央区を流れ、隅田川に合流しています。

 

千代田区と文京区の境にある小石川橋で神田川から分岐した日本橋川は南に向かって流れます。本郷台地と麹町台地の北側の間の低地沿いを流れ、靖国通りと交差した後で南東方向に流れを変えます。皇居内堀の近くを流れた後、神田橋、日本橋、江戸橋などを通過して、中央区の永代橋付近で隅田川に合流しています。日本橋川は、ほぼ全流路に渡って首都高の高架に覆われており、神田川分岐直後から内堀に近い雉子橋(きじばし)辺りまでは首都高5号線、そこから亀島川を仕切る日本橋水門付近まで首都高都心環状線の下を流れています。首都高高架を離れて空を望めるのは亀島川分岐点辺りから隅田川合流地点までのわずか500メートル弱です。

 

江戸幕府開幕以降、平川につながる神田川開削の天下普請が行われたことは、すでに神田川を紹介した際に説明した通りです。三崎橋から堀留橋までが埋め立てられ堀留となり、飯田掘、或いは飯田川とも呼ばれていました。この埋め立てられた区間を再度神田川まで開削し、神川の派川として日本橋川と呼ばれるようになるのは、明治36年(1903年)以降のことですが、飯田堀は近代に至るまで河川舟運が発展し、流域は経済・運輸・文化の中心として大いに栄えました。堀の両側には鎌倉河岸、裏河岸、西河岸、魚河岸、四日市河岸、末広河岸、兜河岸、鎧河岸、茅場河岸、北新堀河岸、南新堀河岸などの河岸が点在し、全国各地から多くの商品が集積していました。

 橋川には、東京都の主要幹線道路と交差している有名な橋が架けられています。靖国通りの「俎橋(まないたばし)」、白山通りの「一ツ橋」、日比谷通りの「神田橋」、外堀通りの「一石橋」、中央通りの「日本橋」、昭和通りの「江戸橋」、新大橋通りの「茅場橋」などです。日本橋川流域を散策してみると、江戸の賑わいを知る趣がいまだに残っていることが分かります。願わくば、首都高の高架を早急に何とかしてもらいたいと思う次第です。

おはようございます。この週末のニュースをみても、中国で感染が広まっている新型肺炎の話題で持ち切りです。日本政府は閉鎖されている湖北省武漢市にチャーター便を飛ばし、現地に滞在する日本人を帰国させる措置をとることを決めました。武漢には知り合いもおり、物資が不足するなど状況は気になるところですが、中国政府をはじめ各国がここまで大騒ぎするほど深刻な状況なのかは、実態がつかめないだけによく分からないところです。

 

さて、本日も前回に続いて「神田川」を紹介していきたいと思います。

 

二代将軍・秀忠の時代になり、旧平川下流域の洪水対策と外濠機能の強化を目的として、現在は本郷台地となっている神田山にぶつかって南流していた流路を東側に付け替える瀬替えの工事が行われました。その後、元和2年(1616年)には、秀忠は仙台藩祖の伊達政宗に命じて牛込橋付近(飯田橋駅)から和泉橋(秋葉原駅)までを開削させます。小石川見付(三崎橋)から東に神田山を切り通したことで、現在のような湯島台と駿河台が分けられるようになりました。そこにできたのがお茶の水の人工谷、「茗渓」です。旧東京教育大(現筑波大)の施設「茗渓会館」の名称、筑波大OB会の名称が「茗渓会」なのも、ここに由来があります。話がずれましたが、このためこの区間は特に「仙台堀」、或いは「伊達堀」と呼ばれています。

 

本郷台地の東側では、旧石神井川と合流させて東流し、隅田川につなぎました。その後幕府は、洪水対策と河川舟運に活用するために、万治3年(1660年)に川幅拡張工事を行います。この工事を担当したのが、仙台藩第4代当主の伊達綱村です。この拡幅された堀割から河口までを神田川と呼びました。これにより、船河原橋(飯田橋)まで河川舟運が通じることになりました。

一方、小石川見付から南流する旧平川の方は、九段下付近まで埋め立てられて神田川と切り離され、堀留となりました。かつては、外濠であった旧平川も内濠となり、「飯田川」と呼ばれて、道三堀からの河川舟運を導いて多くの河岸が立ちました。それでも川の氾濫は治まらず、筋違橋御門から下流の神田川南岸に築土して「柳原土手」を作り、洪水対策を施しました。

 

明治以降、神田川の河川舟運は更に活発になります。上流から紅梅河岸、昌平河岸、佐久間河岸、鞍地河岸、柳原河岸、左衛門河岸など多くの河岸が立ちました。その後、一部の流れが日本橋川となるのですが、このお話はまた別途行います。戦後、高度経済成長期には生活排水の流入により水質が著しく悪化し、「死の川」と呼ばれるほどになりましたが、その後の下水道整備と排水処理場の設置により、近年は水質が大幅に改善されています。

おはようございます。昨日も冒頭の話題とした中国での新型肺炎ですが、報道によると更に広がりを見せているようです。中国現地での日本人社会でも動揺が広がっており、各地で行われるイベントが中止されたり、仮に行われても極端に出席者が少なかったりと、感染の可能性を少しでも避けようとする防衛の動きがみられます。一方で、WHOは「中国国内では緊急事態である」としながらも、「国際的な公衆衛生上の緊急事態宣言」は見送っています。中国で新型肺炎によるものと思われる死者が18人と発表されていますが、その多くは大病を患っていた人が合併症で亡くなる場合や高齢者であり、そのようなことは通常のインフルエンザや風邪でも十分に起こり得ることです。中国政府も湖北省武漢を中心に2,000万人ほどの住民を隔離するなど、感染を食い止める措置を講じていますが、私としては、日本での報道も含め今回の騒ぎには相当な違和感を感じている次第です。

 

さて、 本日からはいよいよ江戸市中に大きな恵みをもたらした河川を紹介していきましょう。当然のことながら、江戸の都市化とともに、もともとの河川の流路を活かして人工的な用水や堀も整備されていきます。 飲料用水や生活用水の確保はもちろんのこと、灌漑用水や河川舟運など経済の発展を促す意味でも重要な役割を果たすよう整備するわけです。

 

そこでまずは、東京都内にある中小河川としては最大規模の「神田川(かんだがわ)」から始めたいと思います。神田川は東京都東部を西から東に流れる一級荒川水系の一級河川で、隅田川の支流として位置付けられています。我々の年代の方であれば、フォークグループの「かぐや姫」の楽曲のタイトルにもなっており、ギター片手に弾き語りをした記憶が懐かしいかと思います。

 

東京都三鷹市井の頭公園内にある井の頭池に源を発し、東京都区部を東に流れ、台東区と中央区、墨田区の境界付近、隅田川に架かる両国橋上手で隅田川に合流します。全長約25キロメートル、流域は105平方キロメートルに及びます。途中、中野区南部で「善福寺川(ぜんぷくじがわ)」、新宿区北部で「妙正寺川(みょうしょうじがわ)」など多数の小河川を合流します。かつては、上流部を「神田上水」、中流部を「江戸川」、下流部を「神田川」と呼んでいましたが、昭和40年(1965年)の河川法改正により、今では全体を神田川と総称しています。

 

神田川は、もともとは「平川(ひらかわ)」と呼ばれ、今の飯田橋付近から現在の日本橋川を通って「日比谷入江(ひびやのいりえ)」、すなわち江戸湾に流れ込んでいました。武蔵野台地などからの湧水や雨水を集めてできた平川ですが、潮汐によって現在の江戸川橋(文京区関口)まで海水が遡上し、沿岸の井戸も鹹水が混じるなど、飲料水には適していませんでした。天正18年(1590年)の徳川家康の江戸入府前後に、大久保忠行が「小石川上水」を整備し、これを基礎に作られたのが「神田上水」です。神田上水についてはすでに紹介していますので、ここでの説明は省略させていただきます。

 

江戸城を拡張するため、江戸前島の日比谷入江(ひびやのいりえ)を埋め立て東海道を整備、その西側に旧平川を導いて隅田川に通じる「道三堀(どうさんぼり)」とつなぎ、江戸前島を貫く江戸城の外濠(外濠川)を新たに開削しました。家康が江戸入府当初は徳川家が自前で行っていたこの普請も、慶長8年(1603年)の江戸幕府開府以降は「天下普請」として諸藩に大規模普請を行わせることになります。

 

神田川の紹介の続きは、次回に回します。

おはようございます。新型コロナウイルスの感染による肺炎患者が、中国で一気に増加し始めてしまいました。湖北省武漢市のみならず、北京や広東省深圳のほか、マカオ・米国・タイなど海外でもなど患者が見付かっており、患者数はすでに500名を超え、これによる死者も17名に達しました。湖北省武漢市では公共交通機関が本日の現地時間午前10時より遮断され、市外への移動を自粛するよう勧告が出ています。日本の報道では、中国政府の対応が後手に回っているとのコメントですが、今回は中国の情報開示も比較的早く、実態を把握するまでの時間も決して遅かったとは思えません。新たなウイルスなどの病原体の特定には、それなりの時間がかかるのは当たり前で、日本で同じことが起きた場合にどれだけ迅速な対応ができるかは、その時になってみないと分からないものです。結果論で人を批判するのは勝手ですが、先ずは自分が他の立場になって考えてみることが大事です。

 

さて、本日は「相模川(さがみがわ)」について紹介しようと思います。今回の「江戸の川」シリーズは、基本的に江戸近郊に関わる河川を中心に紹介しているので、どこまでの河川を対象とするか悩むところですが、西側はこの相模川辺りまでが適当なのではないかと思い、今回取り上げてみることとしました。

 

相模川は、山梨県と神奈川県を流れる相模川一級水系の本流で、一級河川となっています。総延長は109キロメートル、流域面積は1,680平方キロメートルで、山梨県の富士五湖の一つである山中湖を水源とし、富士山麓の湧水を集めながら北西に流れ、富士吉田市で北東に折れます。都留市から大月市までそのまま流れ、そこで東側に流路を変えます。その後、上野原市で神奈川県相模原市に入り、相模湖と津久井湖の二つのダム湖を経て緩やかに進路を南に変えて、厚木市から南にまっすぐ南下し、平塚市と茅ケ崎市の境付近で相模湾に流れ込みます。厚木市からは丹沢山地と相模原台地の間に相模平野を形成する形になっています。

 

相模川の主な支流は、丹沢山地から流れ込む道志川(どうしがわ)、中津川(なかつがわ)です。大月市では笹子川を合流し、道志川は相模湖下流で流れを合わせます。さらにその下流の厚木市では中津川が合流します。

一般に上流の山梨県では「桂川(かつらがわ)」と呼ばれ、神奈川県に入って相模川、さらに河口付近では「馬入川(ばにゅうがわ)」と呼ばれています。桂川の名称は、源流の一つとなっている石割山にある石割神社の神木「桂」の巨木に由来し、相模川はその名の通り相模国に由来しています。また馬入川は、鎌倉時代に相模川を渡る「相模川橋」が架けられた際に、落成供養に臨んだ源頼朝が馬から落ちたという言い伝えに因むものだと言われています。

 

相模川は古くは「鮎川(あゆかわ)」と呼ばれたように、鮎がたくさん獲れ、鮎漁が川沿いの人々の暮らしを支えていました。江戸時代には相模川産の鮎が将軍家へ供される「献上鮎」とされていました。また、江戸時代には河川舟運が盛んで、上流からは年貢米や木材、下流からは海産物や雑貨などが運ばれていました。現在では生活や工業のほか、発電など多目的に利用されています。

おはようございます。気が付いてみれば1月20日の大寒も過ぎてしまい、今年は例年になく寒さを感じる間もなく春を迎えることになりそうです。中国から帰ったばかりのせいか、今朝もそれほど寒くは感じることもなく、少し歩くだけで汗ばんでしまいました。

 

さて、本日は「鶴見川(つるみがわ)」について紹介してみたいと思います。鶴見川は、東京都の南部から神奈川県の東部を流れる一級河川で、鶴見川水系の幹川です。東京都町田市小山田町の多摩丘陵にある泉を源泉とし、神奈川県横浜市鶴見区の河口から東京湾に注いでいます。

 

全長42.5キロメートル、流域面積は235平方キロメートルで、主要な支流の数は10河川〔矢上川、早淵川、鳥山川、大熊川、鴨居川、恩田川、麻生川、真光寺川、砂田川(二次支流)、梅田川(二次支流)〕とされ、平成17年(2005年)に大規模な浸水被害が懸念される「特定都市河川浸水被害対策法」に基づく特定都市河川に指定されています。その背景として、流域内人口の多さと流域内人口密度の高さ、そして市街地の度合いが他の地域に比べ抜きんでている現実があります。

 

鶴見川の源流は、東京都町田市上小山田町(かみおやまだまち)にある多摩三浦丘陵の低湿地・谷戸(やと)群の一角である田中谷戸の湧水を水源とする数本の細流です。源流域下端にある「鶴見川源流泉のひろば」を発した鶴見川は、町田市から神奈川県川崎市麻生区、横浜市青葉区、緑区、都筑区などを概ね南東に向かって流れます。緑区にある落合橋付近から東流し、港北区新横浜付近から蛇行しながら北に、そして東に流れ、鶴見区と幸区の間を南東に蛇行しながら向かい、鶴見区末広町・大黒町の河口から東京湾に注いでいます。その間、多くの支流を合流しています。

 見川の源泉である谷戸群の標高は80150メートルとかなり低く、上流部では1250、沖積低地の中・下流部では11,000の緩勾配となっており、また流域の大半が大きく起伏した丘陵や台地であったため、かつては特段開発されることもなく、自然豊かな景観が形成されていました。

 

鶴見川がこのように丘陵地と台地との間を蛇行しながら緩やかな勾配で流れていたために、河床が浅く、川沿いは低くて平らな沖積地が連なっており、昔から大雨のたびに洪水・氾濫が起きていました。これまで数々の河川で紹介してきたように、戦国時代末期から江戸時代にかけて、大規模な治水・利水事業と広大な新田開発が行われてきました。しかし、鶴見川流域では、水害に見舞われやすい土地条件などが災いして、江戸時代に入っても開発の規模は小さいものでした。

 

その一方で、江戸時代には河川舟運がこの鶴見川でも盛んに利用されるようになり、年貢米などの物資輸送が盛んに行われていたようです。とはいえ、鶴見川は河床の浅さや川の規模から往来できる船の大きさも限られ、利根川など江戸の北側の河川に比べ、経済的な利用価値も小さなものでした。

 

本格的に鶴見川の利用が始まるのは明治に入ってからで、新橋/横浜間に日本で最初の鉄道が開通、鶴見川河口では京浜工業地帯の基礎が築かれ始めました。現在、鶴見川の水は主に農業用水と工業用水に利用されていますが、生活用水のほとんどは流域外から導入されています。

おはようございます。中国での新型コロナウイルスによる肺炎患者が広がりをみせています。湖北省武漢のほか、北京や深圳でも患者が見付かっており、人から人への感染も確認されてしまいました。ただ、感染や患者に関する情報開示が進んでいることから、SARSの時ほど深刻な状況にはなっていないようですが、昨日も話をしたように春節に向けた中国人民の大移動が始まっていますので、爆発的な感染の懸念はあります。私も先週帰国してから特段の感染の兆候は見られず、今回は大丈夫だろうとは思っていますが、今後も出張が続きますので、身体の抵抗力を向上させるよう努めたいと思います。

 

さて、本日は「大丸用水(おおまるようすい)」について紹介したいと思います。大丸用水は、多摩川を水源として、現在の東京都稲城市大丸から神奈川県川崎市多摩区登戸までを流れる灌漑用用水のことを指します。江戸時代以降、周辺の村々を潤す重要な農業用水として維持・管理されてきました。

 

稲城市大丸の一の山下〔南武線多摩川鉄橋のやや上流〕で取水された大丸用水は、南部線沿いに流れ、南多摩駅付近で谷戸川(やとがわ)の下をくぐって府中街道の手前で分量樋によって2つの大きな流れに分かれます。一の山下の取水堰は長さ約100間(約182メートル)あり、ここで堰き止められた多摩川の水は、横幅2間(約3.6メートル)の用水圦樋(いりひ)から大丸用水に取り入れられました。

 

府中街道手前の分量樋では、「大堀(おおほり)」と呼ばれる大丸村用の用水と、他村用の用水とに分けられます。それぞれの堀幅は大堀1に対して他村用が2、大堀は大丸村の南部を潤したのち、長沼村、矢野口村〔いずれも稲城市〕を流れ、川崎方面に向かい、三沢川に合流します。かつては「清水川」とも呼ばれ親しまれていましたが、現在は大半の区間が暗渠化され、流路をたどるのは難しくなっているようです。

 

一方の北寄りを流れる他村用の用水は、府中街道をくぐると大丸村の東部で「菅堀(すげぼり)」と「新堀(しんぼり)」に分かれます。新堀は長沼村の中央部を横切る形で流れ、菅村に入り、二ケ領用水と立体交差して中野島村及び登戸村〔いずれも川崎市多摩区〕の一部を潤します。その一部が三沢川や二ケ領用水に合流して多摩川に返ります。このうち下流部は「中野島用水」とも呼ばれています。

 

菅堀は長沼村の北部を迂回する形で流れます。さらに菅堀は押立村方面〔府中市〕に向かい、喧嘩口(けんかぐち)〔稲城市〕と呼ばれる分水口で三つの流れに分かれます。このようにいくつかの流れに分水された用水は、さらに網目状に分かれて矢野口方面から下流の川崎地域の村々の水田に水を供給していました。

 

大丸用水を使った地域は、武蔵国の橘郡と多摩郡という二つの郡に跨っていました。多摩郡(稲城市側)の大丸村、長沼村、押立村、矢野口村の4村と、橘郡(川崎市側)の菅村、中野島村、菅生(すがお)村、五反田村、登戸村の5村です。この合わせた9村で「大丸用水九ケ村組合」を組織し、用水の維持管理を行い、普請に使う資材は各村々で負担していました。当然、夏場の渇水時には水の配分をめぐっての水争いが起き、多摩川の用水堰設置をめぐる争いもあったようです。

 

大丸用水が設置された時期については諸説あり、多摩川沿いの他の用水路とほぼ同時期に開削されたと考えられています。慶長9年(1604年)、慶長16年(1611年)、元禄3年(1690年)などの説ですが、延享3年(1746年)に書かれた古文書である「佐保田家文書」によると、元禄12年(1699年)以来、大丸用水組合による修繕資材の負担が行われてたことが記されているので、遅くとも17世紀にはこの用水が設置されていたことは間違いありません。

 

近年は取水堰が改築され、沿川の宅地化に伴う一部流路の埋め立てや暗渠化によって昔の流路をたどることは難しくなっていますが、最近では緑道や親水施設が整備されて、市民の憩いの場ともなっています。 

おはようございます。しばらく日本を留守にしていました。先週金曜日に上海から帰ってきましたが、中国は今月25日から始まる春節(旧正月)に向けて帰郷、旅行する人の大移動が始まっており、駅も空港も多くの人でごった返しの状態でした。結果として今回は、河南省・鄭州には行くことができず、上海及び江蘇省・蘇州での調査活動に終始することになってしまいました。大移動が始まった中国ですが、湖北省・武漢で広がっている新型コロナウイルスによる肺炎患者の広がりが懸念されています。ただ、中国国内では以前流行したSARSMARSほどの騒ぎにはなっていませんでした。

 

さて、本日は「溝口水騒動(みぞぐちみずそうどう)」について紹介したいと思います。溝口水騒動とは、文政4年(1821年)の干ばつに伴う水不足に絡んで、二ケ領用水をめぐって発生した大規模な水争いのことです。

 

文政4年(1821年)は春から降雨が少なく、日照り続きで田植えの時期になっても十分な水が賄えないような状態となっていました。稲毛領と川崎領に農業用水を供給する二ケ領用水は、多摩川の水を2カ所の取り入れ口から取水し、稲毛領久地(くじ)村内に設置した分量樋(ぶんりょうひ)〔現在は「久地円筒分水(くじえんとうぶんすい)」となっている〕で川崎堀(川崎方面)、根方堀(根方・十三ケ村方面)、六ケ村堀(川辺・六ケ村方面)、久地・二子堀(久地・溝口方面)の各堀に分水していました。

水不足を憂いていた溝口村と久地村の百姓は、同年5月頃より久地分量樋の川崎堀の分水口を閉め切り、自分たちに有利なように分水量を調整していました。このため、川崎領の33カ村では農業用水はもちろんのこと、飲料水にも事欠くようになっていました。そこで川崎領の名主たちは御普請役人に訴えを起こし、同年7月4日の夕方から7日の夕方にかけて川崎領に水が流れるよう取り計らう決定が下されました。

 

しかし、同月4日夕方を過ぎても一向に水が流れてこないので、川崎領の百姓が調べてみると、溝口村名主の丸屋・鈴木七右衛門と久地村の百姓らが水番人を追い払い、分量樋の川崎堀を筵で堰き止めていたことが発覚しました。川崎領の百姓たちは役所に訴え出ますが、問題が解決しません。そこで激高した百姓たちによって、丸屋打ち壊しや犠牲者救済策などの騒動を起こすことが決められます。

 

同月6日早朝、川崎領の百姓たちは竹槍やとび口などをもって府中道口に集まり、溝口村までの4里余りを北上し、久地分量樋に殺到し、続いて名主の七右衛門宅を急襲します。道中、道筋の村々の百姓も加わって19カ村、14,000人余りの集団にまで膨れ上がっていました。一方、溝口村の七右衛門宅でも石や竹槍、熱湯を用意して迎え撃ち、川崎領の百姓と衝突しました。七右衛門宅では居室や土蔵などのほか、隣家2軒も破壊されてしましました。そのとき、七右衛門は江戸へ出向いて不在だったことから、滞在先の江戸馬喰町の御用屋敷まで追いかけていくという大騒動にまで発展しました。

 

この騒動が一段落した後、江戸幕府は名主や年寄をはじめとする関係者に厳しい罰則を与えます。分量樋を違法に堰き止めた責任者の七右衛門は江戸所払いの厳罰を受け、騒動を扇動したとされる大師河原村の百姓・粂七は10里四方追放となったほか、川崎領や久地村、溝口村の農民たちにも過料銭が課せられる罰が下されています。

 

二ケ領用水をめぐっては、大小さまざまな水騒動がある中で、この溝口水騒動が最大のものとされています。しかし、この騒動については、川崎領側には多くの記録が残っていますが、稲毛領側には残されていないとのことです。

おはようございます。一昨日、昨日と所用で瓦版がお送りできず、失礼しました。来週もまた、日曜日から金曜日まで中国出張で瓦版がお送りできません。ご了承ください。今回、出張するのは上海、江蘇省の蘇州、そして河南省の鄭州です。河南省は、今騒がれているウイルス性肺炎の流行している武漢のある湖北省の隣です。今のところ鄭州での流行が確認されているわけではないので、それほど心配はしていませんが、それでも油断せず慎重に行動しようと思っています。世界中で蔓延する感染症は昔から存在していましたが、新たなウイルスによる病気の蔓延は、人為的な要因も含め不可思議なことが多すぎます。どのような状況においても、自分自身の抵抗力を高めることが何より大事かと思います。

 

さて、本日は「六郷用水(ろくごうようすい)」ついて紹介しようと思います。六郷用水は、かつて武蔵国に存在した農業用水路で、現在はその流路の大半が失われて「幻の六郷用水」と呼ばれています。

 

六郷用水は、慶長2年(1597年)に徳川家康が用水奉行の小泉次大夫に命じて開削を開始し、15年の歳月をかけて完成させました。前回紹介した「二ケ領用水」と同じ時期に開削が進められ、同用水と合わせて「四ケ領用水」とも呼ばれていたこと、小泉次大夫の名をとって「次大夫堀(じだゆうぼり)」と呼ばれていたことは、すでに説明した通りです。開通から100年を経過したころには、大分老朽化していたようですが、享保9年(1724年)から同10年(1725年)に代官・田中丘隅(休愚)の手によって、二ケ領用水と並行して改修が行われました。

 

多摩郡和泉村(東京都狛江市元和泉)の多摩川から取水された六郷用水は、世田谷領に入って野川、仙川、谷沢川などを合流して六郷領に入ります。六郷領では、難工事だった女堀(おんなぼり)を通過して、鵜木村(東京都大田区鵜の木)から矢口村(大田区矢口)に至り、そこで南北に引き分けられます。南堀は鎌田、六郷、糀谷(こうじや)方面〔いずれも大田区〕に流れ、北堀は池上、堤方(つつみかた)、新井宿、不入斗(いりやまず)〔いずれも大田区〕に至って東京湾に流入していました。世田谷領内では14カ村、六郷領内では35カ村、合計49カ村、約1,500ヘクタールの田地を潤しました。

 代以降、当該地域の都市化が進んだことで六郷用水の灌漑用水としての役割は終わり、昭和20年(1945年)に六郷用水は廃止されることになります。大半は埋め立てられたか、或いは雨水用の下水道となるなどして失われてしまいました。現在、一部区間が丸子川として残っているほか、湧水を使った用水路が再現されたり、水辺の散策路として整備されたりしている部分があります。

おはようございます。今朝は駅について、パスモの入った名刺入れがないことに気が付きました。家を出る前にテーブルの上に置いたのを忘れたと思い、取り敢えず切符を買って出勤し、LINEで子供たちに一応確認のお願いをしておきました。その後すぐに息子から「無い」との連絡があり、駅に行く途中で落としたのかと少し焦りました。息子がすぐに駅までの道をたどって探してくれましたが、それでも見つかりません。ふと、思い当たる節があり、家の中で再度探してもらうと、そこにしっかりと置いてありました。朝早くから寒い中、駅までの道のりを探しに出てくれた心優しい息子に感謝しています。明日は所用で朝から外出のため、瓦版はお送りできませんので、ご了承ください。

 

さて、本日は「二ケ領用水(にかりょうようすい)」について紹介したいと思います。二ケ領用水は、多摩川を水源として神奈川県川崎市のほぼ全域を流れる神奈川県下で最も古い人工用水の一つです。

 

現在の川崎市多摩区布田(ふだ)にある上河原堰(かみがわらせき)から取水された二ケ領用水の水は、すぐに旧三沢川及び大丸用水(おおまるようすい)の一部が合流し、東南に向かって流れます。登戸で山下川、東生田で五反田川を合わせて、川崎市高津区で新平瀬川に合流して、最終的には多摩川に流れ込みます。このうち、旧三沢川合流地点から新平瀬川に合流するまでの区間は「二ケ領本川(新川)」と呼ばれ、多摩川水系平瀬川支流の一級河川とされています。

 

一方、二ケ領用水として川崎市多摩区宿川原(しゅくがわら)にある宿川原堰からも取水する用水路があります。これは宿川原町内を流れて久地(くじ)〔川崎市高津区〕に至るルートで、「宿河原用水(しゅくがわらようすい)」と呼ばれ、二ケ領用水を形成しており、この区間と上河原堰から旧三沢川との合流地点までは準用河川とされています。

 

二ケ領用水の総延長は18.46キロメートルですが、宿川原の支流なども含めると約32キロメートルに達します。多摩川から二ケ領用水への取水は、当初は自然流による取水でしたが、その後竹で編んだ蛇籠に玉石を入れたものを取水口に並べて堰き止めていました。現在のような固定堰が設けられたのは、昭和20年以降のことです。

 ケ領用水と言われるのは、江戸時代にこの用水が稲毛領と川崎領の二つの領を灌漑するものであったからで、さらに多摩川対岸の左岸に設置された「六郷用水」と合わせて「四ケ領用水(よんかりょうようすい)」、或いは「次大夫堀(じだゆうぼり)」とも呼ばれています。次大夫堀というのは、二ケ領用水と六郷用水が当時の用水奉行である小泉次大夫が総指揮官として建設されたものであったからです。

 

関東に移封となった徳川家康は、慶長2年(1597年)に小泉次大夫に稲毛領から川崎領六郷に至る用水路の整備を命じます。次大夫はこの二ケ領用水の整備とともに、多摩川対岸の左岸にも六郷用水路の建設に着手しました。慶長16年(1611年)、二ケ領用水が完成し、武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)北部の稲毛領37ケ村及び川崎領23ケ村の計約2,000町歩の広範囲にわたって水路が張り巡らされました。これにより二ケ領地域の新田開発が進み、「稲毛米」と呼ばれる上質な米が産出されたのです。

 

寛永6年(1629年)には、代官・伊奈半左衛門の手代・筧助兵衛(かけいすけひょうへい)により宿河原取水口と宿川原用水が完成し、引水量が増加して米の増産が実現し、享保9年(1724年)には田中丘隅(たなかきゅうぐ)により全面改修が行われました。文政4年(1821年)7月、夏の干ばつが原因となった「溝口水騒動(みぞぐちみずそうどう)」が勃発しますが、これについては後日詳細に紹介したいと思います。

 

この二ケ領用水は、明治4年(1871年)に民間の横浜水道会社の管轄となり、その後神奈川県へと引き継がれていきました。江戸時代は専ら農業用水として使われていた二ケ領用水ですが、現在では工業用水、そして河岸には桜の木なども植えられ、近隣住民の憩いの場として親しまれています。

新年明けましておめでとうございます。暦通りに休めば9連休となった方も多かったのではないかと思います。この年末年始の間に、日本では前日産自動車会長のカルロス・ゴーン被告のレバノンへの国外逃亡事件、海外に目を向ければ米軍によるイラン革命防衛隊のソレイマニ司令官の殺害と米イラン対立の深刻化など、ニュースに事欠かない年明けとなりました。波乱の年明けとなった令和2年は、どのような年になるのでしょうか? そして我々はどう生き抜いて行けばよいのでしょうか? それぞれの知恵と勇気が試される年になりそうです。

 

さて、本日は「野火止用水(のびどめようすい)」について紹介してみようと思います。多摩川から取水される用水として有名なものは、言わずと知れた「玉川上水」ですが、これについてはすでに3年半ほど前に紹介しているので(http://azuma-geijutsu.com/info/azu-blog/2016/06/-20160609.html)、ここでは省略致します。その玉川上水から続いているのがこの野火止用水です。

 京都立川市にある玉川上水の小平監視所から取水された野火止用水は、埼玉県新座市を通り、同県志木市で新河岸川(しんがしがわ)に合流しています。全長は25キロメートル、川幅は約1メートルです。開削当初は野火留村にちなんで「野火留用水」と表記されていました。

 

玉川上水が完成したのは承応3年(1654年)のことで、このとき総奉行を務めたのは老中の川越藩主・松平伊豆守信綱で、水道奉行は関東郡代・伊奈半十郎、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が請け負いました。玉川上水建設の功績が認められ、信綱に対して領地の野火止へと玉川上水の分水が許されました。野火止の地は関東ローム層の乾燥した台地であり、生活用水にも難渋していたのです。このとき開削されたのが、野火用水でした。

 

信綱は、家臣の安松金右衛門と小畠助左衛門を補佐に命じ、工期は承応4年(1655年)2月から3月までのわずか40日間、費用は3,000両で完成したといわれています。水量の配分は、玉川上水が7割、野火用水が3割でした。この用水路は基本的には素掘りにより開削されていますが、土地の低いところは版築法などにより堤が築かれ、野火台地にも引水され、飲料水や生活用水のほか、舘村(埼玉県志木市)や宮戸新田(朝霞市)の水田用水にも使われるようになりました。その後、寛文2年(1662年)に、新河岸川に懸樋(かけひ)を懸けて、用水が対岸の宗岡(志木市)まで引かれるようになりました。

 

野火用水の開削に前後して、川越藩では農民や家臣を多数この地に入植させて、大規模な新田開発を行いました。これによって領民の生活が豊かになったことから、信綱への感謝の意を込めて野火用水を「伊豆殿堀(いずどのぼり)」と呼ぶようになりました。

 

昭和に入り、戦後以降は生活様式の変化によって野火止用水でも水質汚染が始まり、また干ばつによる水不足の影響もあって昭和39年(1964)年に野火止用水への分水が一時中止されます。昭和41年(1966年)に再度通水されますが、昭和48年には玉川上水からの取水がついに停止してしまいました。しかし、その後の下水処理の高度化によって流水活用を目指す「清流復活事業」実施の結果、昭和59年(1984年)に野火止用水が甦ることになったのです。