2020年1月アーカイブ

おはようございます。しばらく日本を留守にしていました。先週金曜日に上海から帰ってきましたが、中国は今月25日から始まる春節(旧正月)に向けて帰郷、旅行する人の大移動が始まっており、駅も空港も多くの人でごった返しの状態でした。結果として今回は、河南省・鄭州には行くことができず、上海及び江蘇省・蘇州での調査活動に終始することになってしまいました。大移動が始まった中国ですが、湖北省・武漢で広がっている新型コロナウイルスによる肺炎患者の広がりが懸念されています。ただ、中国国内では以前流行したSARSMARSほどの騒ぎにはなっていませんでした。

 

さて、本日は「溝口水騒動(みぞぐちみずそうどう)」について紹介したいと思います。溝口水騒動とは、文政4年(1821年)の干ばつに伴う水不足に絡んで、二ケ領用水をめぐって発生した大規模な水争いのことです。

 

文政4年(1821年)は春から降雨が少なく、日照り続きで田植えの時期になっても十分な水が賄えないような状態となっていました。稲毛領と川崎領に農業用水を供給する二ケ領用水は、多摩川の水を2カ所の取り入れ口から取水し、稲毛領久地(くじ)村内に設置した分量樋(ぶんりょうひ)〔現在は「久地円筒分水(くじえんとうぶんすい)」となっている〕で川崎堀(川崎方面)、根方堀(根方・十三ケ村方面)、六ケ村堀(川辺・六ケ村方面)、久地・二子堀(久地・溝口方面)の各堀に分水していました。

水不足を憂いていた溝口村と久地村の百姓は、同年5月頃より久地分量樋の川崎堀の分水口を閉め切り、自分たちに有利なように分水量を調整していました。このため、川崎領の33カ村では農業用水はもちろんのこと、飲料水にも事欠くようになっていました。そこで川崎領の名主たちは御普請役人に訴えを起こし、同年7月4日の夕方から7日の夕方にかけて川崎領に水が流れるよう取り計らう決定が下されました。

 

しかし、同月4日夕方を過ぎても一向に水が流れてこないので、川崎領の百姓が調べてみると、溝口村名主の丸屋・鈴木七右衛門と久地村の百姓らが水番人を追い払い、分量樋の川崎堀を筵で堰き止めていたことが発覚しました。川崎領の百姓たちは役所に訴え出ますが、問題が解決しません。そこで激高した百姓たちによって、丸屋打ち壊しや犠牲者救済策などの騒動を起こすことが決められます。

 

同月6日早朝、川崎領の百姓たちは竹槍やとび口などをもって府中道口に集まり、溝口村までの4里余りを北上し、久地分量樋に殺到し、続いて名主の七右衛門宅を急襲します。道中、道筋の村々の百姓も加わって19カ村、14,000人余りの集団にまで膨れ上がっていました。一方、溝口村の七右衛門宅でも石や竹槍、熱湯を用意して迎え撃ち、川崎領の百姓と衝突しました。七右衛門宅では居室や土蔵などのほか、隣家2軒も破壊されてしましました。そのとき、七右衛門は江戸へ出向いて不在だったことから、滞在先の江戸馬喰町の御用屋敷まで追いかけていくという大騒動にまで発展しました。

 

この騒動が一段落した後、江戸幕府は名主や年寄をはじめとする関係者に厳しい罰則を与えます。分量樋を違法に堰き止めた責任者の七右衛門は江戸所払いの厳罰を受け、騒動を扇動したとされる大師河原村の百姓・粂七は10里四方追放となったほか、川崎領や久地村、溝口村の農民たちにも過料銭が課せられる罰が下されています。

 

二ケ領用水をめぐっては、大小さまざまな水騒動がある中で、この溝口水騒動が最大のものとされています。しかし、この騒動については、川崎領側には多くの記録が残っていますが、稲毛領側には残されていないとのことです。

おはようございます。一昨日、昨日と所用で瓦版がお送りできず、失礼しました。来週もまた、日曜日から金曜日まで中国出張で瓦版がお送りできません。ご了承ください。今回、出張するのは上海、江蘇省の蘇州、そして河南省の鄭州です。河南省は、今騒がれているウイルス性肺炎の流行している武漢のある湖北省の隣です。今のところ鄭州での流行が確認されているわけではないので、それほど心配はしていませんが、それでも油断せず慎重に行動しようと思っています。世界中で蔓延する感染症は昔から存在していましたが、新たなウイルスによる病気の蔓延は、人為的な要因も含め不可思議なことが多すぎます。どのような状況においても、自分自身の抵抗力を高めることが何より大事かと思います。

 

さて、本日は「六郷用水(ろくごうようすい)」ついて紹介しようと思います。六郷用水は、かつて武蔵国に存在した農業用水路で、現在はその流路の大半が失われて「幻の六郷用水」と呼ばれています。

 

六郷用水は、慶長2年(1597年)に徳川家康が用水奉行の小泉次大夫に命じて開削を開始し、15年の歳月をかけて完成させました。前回紹介した「二ケ領用水」と同じ時期に開削が進められ、同用水と合わせて「四ケ領用水」とも呼ばれていたこと、小泉次大夫の名をとって「次大夫堀(じだゆうぼり)」と呼ばれていたことは、すでに説明した通りです。開通から100年を経過したころには、大分老朽化していたようですが、享保9年(1724年)から同10年(1725年)に代官・田中丘隅(休愚)の手によって、二ケ領用水と並行して改修が行われました。

 

多摩郡和泉村(東京都狛江市元和泉)の多摩川から取水された六郷用水は、世田谷領に入って野川、仙川、谷沢川などを合流して六郷領に入ります。六郷領では、難工事だった女堀(おんなぼり)を通過して、鵜木村(東京都大田区鵜の木)から矢口村(大田区矢口)に至り、そこで南北に引き分けられます。南堀は鎌田、六郷、糀谷(こうじや)方面〔いずれも大田区〕に流れ、北堀は池上、堤方(つつみかた)、新井宿、不入斗(いりやまず)〔いずれも大田区〕に至って東京湾に流入していました。世田谷領内では14カ村、六郷領内では35カ村、合計49カ村、約1,500ヘクタールの田地を潤しました。

 代以降、当該地域の都市化が進んだことで六郷用水の灌漑用水としての役割は終わり、昭和20年(1945年)に六郷用水は廃止されることになります。大半は埋め立てられたか、或いは雨水用の下水道となるなどして失われてしまいました。現在、一部区間が丸子川として残っているほか、湧水を使った用水路が再現されたり、水辺の散策路として整備されたりしている部分があります。

おはようございます。今朝は駅について、パスモの入った名刺入れがないことに気が付きました。家を出る前にテーブルの上に置いたのを忘れたと思い、取り敢えず切符を買って出勤し、LINEで子供たちに一応確認のお願いをしておきました。その後すぐに息子から「無い」との連絡があり、駅に行く途中で落としたのかと少し焦りました。息子がすぐに駅までの道をたどって探してくれましたが、それでも見つかりません。ふと、思い当たる節があり、家の中で再度探してもらうと、そこにしっかりと置いてありました。朝早くから寒い中、駅までの道のりを探しに出てくれた心優しい息子に感謝しています。明日は所用で朝から外出のため、瓦版はお送りできませんので、ご了承ください。

 

さて、本日は「二ケ領用水(にかりょうようすい)」について紹介したいと思います。二ケ領用水は、多摩川を水源として神奈川県川崎市のほぼ全域を流れる神奈川県下で最も古い人工用水の一つです。

 

現在の川崎市多摩区布田(ふだ)にある上河原堰(かみがわらせき)から取水された二ケ領用水の水は、すぐに旧三沢川及び大丸用水(おおまるようすい)の一部が合流し、東南に向かって流れます。登戸で山下川、東生田で五反田川を合わせて、川崎市高津区で新平瀬川に合流して、最終的には多摩川に流れ込みます。このうち、旧三沢川合流地点から新平瀬川に合流するまでの区間は「二ケ領本川(新川)」と呼ばれ、多摩川水系平瀬川支流の一級河川とされています。

 

一方、二ケ領用水として川崎市多摩区宿川原(しゅくがわら)にある宿川原堰からも取水する用水路があります。これは宿川原町内を流れて久地(くじ)〔川崎市高津区〕に至るルートで、「宿河原用水(しゅくがわらようすい)」と呼ばれ、二ケ領用水を形成しており、この区間と上河原堰から旧三沢川との合流地点までは準用河川とされています。

 

二ケ領用水の総延長は18.46キロメートルですが、宿川原の支流なども含めると約32キロメートルに達します。多摩川から二ケ領用水への取水は、当初は自然流による取水でしたが、その後竹で編んだ蛇籠に玉石を入れたものを取水口に並べて堰き止めていました。現在のような固定堰が設けられたのは、昭和20年以降のことです。

 ケ領用水と言われるのは、江戸時代にこの用水が稲毛領と川崎領の二つの領を灌漑するものであったからで、さらに多摩川対岸の左岸に設置された「六郷用水」と合わせて「四ケ領用水(よんかりょうようすい)」、或いは「次大夫堀(じだゆうぼり)」とも呼ばれています。次大夫堀というのは、二ケ領用水と六郷用水が当時の用水奉行である小泉次大夫が総指揮官として建設されたものであったからです。

 

関東に移封となった徳川家康は、慶長2年(1597年)に小泉次大夫に稲毛領から川崎領六郷に至る用水路の整備を命じます。次大夫はこの二ケ領用水の整備とともに、多摩川対岸の左岸にも六郷用水路の建設に着手しました。慶長16年(1611年)、二ケ領用水が完成し、武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)北部の稲毛領37ケ村及び川崎領23ケ村の計約2,000町歩の広範囲にわたって水路が張り巡らされました。これにより二ケ領地域の新田開発が進み、「稲毛米」と呼ばれる上質な米が産出されたのです。

 

寛永6年(1629年)には、代官・伊奈半左衛門の手代・筧助兵衛(かけいすけひょうへい)により宿河原取水口と宿川原用水が完成し、引水量が増加して米の増産が実現し、享保9年(1724年)には田中丘隅(たなかきゅうぐ)により全面改修が行われました。文政4年(1821年)7月、夏の干ばつが原因となった「溝口水騒動(みぞぐちみずそうどう)」が勃発しますが、これについては後日詳細に紹介したいと思います。

 

この二ケ領用水は、明治4年(1871年)に民間の横浜水道会社の管轄となり、その後神奈川県へと引き継がれていきました。江戸時代は専ら農業用水として使われていた二ケ領用水ですが、現在では工業用水、そして河岸には桜の木なども植えられ、近隣住民の憩いの場として親しまれています。

新年明けましておめでとうございます。暦通りに休めば9連休となった方も多かったのではないかと思います。この年末年始の間に、日本では前日産自動車会長のカルロス・ゴーン被告のレバノンへの国外逃亡事件、海外に目を向ければ米軍によるイラン革命防衛隊のソレイマニ司令官の殺害と米イラン対立の深刻化など、ニュースに事欠かない年明けとなりました。波乱の年明けとなった令和2年は、どのような年になるのでしょうか? そして我々はどう生き抜いて行けばよいのでしょうか? それぞれの知恵と勇気が試される年になりそうです。

 

さて、本日は「野火止用水(のびどめようすい)」について紹介してみようと思います。多摩川から取水される用水として有名なものは、言わずと知れた「玉川上水」ですが、これについてはすでに3年半ほど前に紹介しているので(http://azuma-geijutsu.com/info/azu-blog/2016/06/-20160609.html)、ここでは省略致します。その玉川上水から続いているのがこの野火止用水です。

 京都立川市にある玉川上水の小平監視所から取水された野火止用水は、埼玉県新座市を通り、同県志木市で新河岸川(しんがしがわ)に合流しています。全長は25キロメートル、川幅は約1メートルです。開削当初は野火留村にちなんで「野火留用水」と表記されていました。

 

玉川上水が完成したのは承応3年(1654年)のことで、このとき総奉行を務めたのは老中の川越藩主・松平伊豆守信綱で、水道奉行は関東郡代・伊奈半十郎、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が請け負いました。玉川上水建設の功績が認められ、信綱に対して領地の野火止へと玉川上水の分水が許されました。野火止の地は関東ローム層の乾燥した台地であり、生活用水にも難渋していたのです。このとき開削されたのが、野火用水でした。

 

信綱は、家臣の安松金右衛門と小畠助左衛門を補佐に命じ、工期は承応4年(1655年)2月から3月までのわずか40日間、費用は3,000両で完成したといわれています。水量の配分は、玉川上水が7割、野火用水が3割でした。この用水路は基本的には素掘りにより開削されていますが、土地の低いところは版築法などにより堤が築かれ、野火台地にも引水され、飲料水や生活用水のほか、舘村(埼玉県志木市)や宮戸新田(朝霞市)の水田用水にも使われるようになりました。その後、寛文2年(1662年)に、新河岸川に懸樋(かけひ)を懸けて、用水が対岸の宗岡(志木市)まで引かれるようになりました。

 

野火用水の開削に前後して、川越藩では農民や家臣を多数この地に入植させて、大規模な新田開発を行いました。これによって領民の生活が豊かになったことから、信綱への感謝の意を込めて野火用水を「伊豆殿堀(いずどのぼり)」と呼ぶようになりました。

 

昭和に入り、戦後以降は生活様式の変化によって野火止用水でも水質汚染が始まり、また干ばつによる水不足の影響もあって昭和39年(1964)年に野火止用水への分水が一時中止されます。昭和41年(1966年)に再度通水されますが、昭和48年には玉川上水からの取水がついに停止してしまいました。しかし、その後の下水処理の高度化によって流水活用を目指す「清流復活事業」実施の結果、昭和59年(1984年)に野火止用水が甦ることになったのです。