東藝術倶楽部瓦版 20200106:【江戸の川その29】玉川上水からの分水で新田開発-「野火止用水」

新年明けましておめでとうございます。暦通りに休めば9連休となった方も多かったのではないかと思います。この年末年始の間に、日本では前日産自動車会長のカルロス・ゴーン被告のレバノンへの国外逃亡事件、海外に目を向ければ米軍によるイラン革命防衛隊のソレイマニ司令官の殺害と米イラン対立の深刻化など、ニュースに事欠かない年明けとなりました。波乱の年明けとなった令和2年は、どのような年になるのでしょうか? そして我々はどう生き抜いて行けばよいのでしょうか? それぞれの知恵と勇気が試される年になりそうです。

 

さて、本日は「野火止用水(のびどめようすい)」について紹介してみようと思います。多摩川から取水される用水として有名なものは、言わずと知れた「玉川上水」ですが、これについてはすでに3年半ほど前に紹介しているので(http://azuma-geijutsu.com/info/azu-blog/2016/06/-20160609.html)、ここでは省略致します。その玉川上水から続いているのがこの野火止用水です。

 京都立川市にある玉川上水の小平監視所から取水された野火止用水は、埼玉県新座市を通り、同県志木市で新河岸川(しんがしがわ)に合流しています。全長は25キロメートル、川幅は約1メートルです。開削当初は野火留村にちなんで「野火留用水」と表記されていました。

 

玉川上水が完成したのは承応3年(1654年)のことで、このとき総奉行を務めたのは老中の川越藩主・松平伊豆守信綱で、水道奉行は関東郡代・伊奈半十郎、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が請け負いました。玉川上水建設の功績が認められ、信綱に対して領地の野火止へと玉川上水の分水が許されました。野火止の地は関東ローム層の乾燥した台地であり、生活用水にも難渋していたのです。このとき開削されたのが、野火用水でした。

 

信綱は、家臣の安松金右衛門と小畠助左衛門を補佐に命じ、工期は承応4年(1655年)2月から3月までのわずか40日間、費用は3,000両で完成したといわれています。水量の配分は、玉川上水が7割、野火用水が3割でした。この用水路は基本的には素掘りにより開削されていますが、土地の低いところは版築法などにより堤が築かれ、野火台地にも引水され、飲料水や生活用水のほか、舘村(埼玉県志木市)や宮戸新田(朝霞市)の水田用水にも使われるようになりました。その後、寛文2年(1662年)に、新河岸川に懸樋(かけひ)を懸けて、用水が対岸の宗岡(志木市)まで引かれるようになりました。

 

野火用水の開削に前後して、川越藩では農民や家臣を多数この地に入植させて、大規模な新田開発を行いました。これによって領民の生活が豊かになったことから、信綱への感謝の意を込めて野火用水を「伊豆殿堀(いずどのぼり)」と呼ぶようになりました。

 

昭和に入り、戦後以降は生活様式の変化によって野火止用水でも水質汚染が始まり、また干ばつによる水不足の影響もあって昭和39年(1964)年に野火止用水への分水が一時中止されます。昭和41年(1966年)に再度通水されますが、昭和48年には玉川上水からの取水がついに停止してしまいました。しかし、その後の下水処理の高度化によって流水活用を目指す「清流復活事業」実施の結果、昭和59年(1984年)に野火止用水が甦ることになったのです。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年1月 6日 09:03に書いたブログ記事です。

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