東藝術倶楽部瓦版 20200107:【江戸の川その30】米の増産をもたらした「二ヶ領用水」

おはようございます。今朝は駅について、パスモの入った名刺入れがないことに気が付きました。家を出る前にテーブルの上に置いたのを忘れたと思い、取り敢えず切符を買って出勤し、LINEで子供たちに一応確認のお願いをしておきました。その後すぐに息子から「無い」との連絡があり、駅に行く途中で落としたのかと少し焦りました。息子がすぐに駅までの道をたどって探してくれましたが、それでも見つかりません。ふと、思い当たる節があり、家の中で再度探してもらうと、そこにしっかりと置いてありました。朝早くから寒い中、駅までの道のりを探しに出てくれた心優しい息子に感謝しています。明日は所用で朝から外出のため、瓦版はお送りできませんので、ご了承ください。

 

さて、本日は「二ケ領用水(にかりょうようすい)」について紹介したいと思います。二ケ領用水は、多摩川を水源として神奈川県川崎市のほぼ全域を流れる神奈川県下で最も古い人工用水の一つです。

 

現在の川崎市多摩区布田(ふだ)にある上河原堰(かみがわらせき)から取水された二ケ領用水の水は、すぐに旧三沢川及び大丸用水(おおまるようすい)の一部が合流し、東南に向かって流れます。登戸で山下川、東生田で五反田川を合わせて、川崎市高津区で新平瀬川に合流して、最終的には多摩川に流れ込みます。このうち、旧三沢川合流地点から新平瀬川に合流するまでの区間は「二ケ領本川(新川)」と呼ばれ、多摩川水系平瀬川支流の一級河川とされています。

 

一方、二ケ領用水として川崎市多摩区宿川原(しゅくがわら)にある宿川原堰からも取水する用水路があります。これは宿川原町内を流れて久地(くじ)〔川崎市高津区〕に至るルートで、「宿河原用水(しゅくがわらようすい)」と呼ばれ、二ケ領用水を形成しており、この区間と上河原堰から旧三沢川との合流地点までは準用河川とされています。

 

二ケ領用水の総延長は18.46キロメートルですが、宿川原の支流なども含めると約32キロメートルに達します。多摩川から二ケ領用水への取水は、当初は自然流による取水でしたが、その後竹で編んだ蛇籠に玉石を入れたものを取水口に並べて堰き止めていました。現在のような固定堰が設けられたのは、昭和20年以降のことです。

 ケ領用水と言われるのは、江戸時代にこの用水が稲毛領と川崎領の二つの領を灌漑するものであったからで、さらに多摩川対岸の左岸に設置された「六郷用水」と合わせて「四ケ領用水(よんかりょうようすい)」、或いは「次大夫堀(じだゆうぼり)」とも呼ばれています。次大夫堀というのは、二ケ領用水と六郷用水が当時の用水奉行である小泉次大夫が総指揮官として建設されたものであったからです。

 

関東に移封となった徳川家康は、慶長2年(1597年)に小泉次大夫に稲毛領から川崎領六郷に至る用水路の整備を命じます。次大夫はこの二ケ領用水の整備とともに、多摩川対岸の左岸にも六郷用水路の建設に着手しました。慶長16年(1611年)、二ケ領用水が完成し、武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)北部の稲毛領37ケ村及び川崎領23ケ村の計約2,000町歩の広範囲にわたって水路が張り巡らされました。これにより二ケ領地域の新田開発が進み、「稲毛米」と呼ばれる上質な米が産出されたのです。

 

寛永6年(1629年)には、代官・伊奈半左衛門の手代・筧助兵衛(かけいすけひょうへい)により宿河原取水口と宿川原用水が完成し、引水量が増加して米の増産が実現し、享保9年(1724年)には田中丘隅(たなかきゅうぐ)により全面改修が行われました。文政4年(1821年)7月、夏の干ばつが原因となった「溝口水騒動(みぞぐちみずそうどう)」が勃発しますが、これについては後日詳細に紹介したいと思います。

 

この二ケ領用水は、明治4年(1871年)に民間の横浜水道会社の管轄となり、その後神奈川県へと引き継がれていきました。江戸時代は専ら農業用水として使われていた二ケ領用水ですが、現在では工業用水、そして河岸には桜の木なども植えられ、近隣住民の憩いの場として親しまれています。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年1月 7日 08:58に書いたブログ記事です。

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