はようございます。今朝、日本時間の午前4時10分頃に、中米ジャマイカの北西沖のカリブ海でマグネチュード7.7の地震が起き、津波の発生する恐れがあるとのことです。日本には直接影響があるわけではありませんが、気になる情報です。中国で発生した新型ウイルスによる感染症で、周辺都市全体が閉鎖されている武漢市で、滞在している日本人を帰国させるためのチャーター機第1便が、本日武漢を出発するとのことです。その後も450人ほどいる帰国希望者のために、引き続きチャーター機の手配を進めています。明日は朝食懇談会出席のため、瓦版はお休みします。ご了承ください。
さて、本日は「曳舟川(ひきふねがわ)」について紹介したいと思います。曳舟川は、東京都葛飾区から墨田区に入った葛西用水の川筋で、かつて隅田川の東側に位置する向島辺り、今の京成押上線に沿ってその西側を流れていました。江戸時代の地名で言えば「請地村(うけじむら)」や「須崎村」を経て、「小梅村」〔墨田区〕で大横川に合流していました。
そもそも曳舟川が開削されたのは明暦3年(1657年)の大火の後、徳川幕府が万治2年(1659年)に本所開拓に伴う上水を整備したことが始まりと言われています。もともとは「本所(亀有)上水」として整備されたもので、これについては「江戸の六上水」(http://azuma-geijutsu.com/info/azu-blog/2016/06/-20160610.html)のところで簡単に紹介しています。利根川水系の元荒川の一部を堰き止めて造った「瓦曽根溜井(かわらそねためい)」〔埼玉県越谷市〕を水源とし、葛西用水に並行して南下するように開削されます。この上水は現在の埼玉県草加市、八潮市を経て東京都足立区、葛飾区、墨田区へと続きます。墨田区内では東向島、押上、向島を経て北十間川と交差して、大横川に並行して法恩寺際まで全長約23キロメートルとなっていました。ここから地中に埋設した木製の懸樋(かけひ)によって分水し、本所、深川地区内に供給されていました。一般に、瓦曽根溜井から亀有(葛飾区)までを葛西用水、亀有から小梅までを曳舟川と呼んでいます。
しかし、この上水も享保7年(1722年)に廃止されます。その理由は水源との高低差がないために水量不足となり、度重なる水害によって上水が汚染されてしまったからです。また、本所地区では徐々に井戸も掘られるようになっていたことも、その要因の一つです。上水廃止に伴い、北十間川から法恩寺際までは埋め戻されましたが、小梅以北はそのまま川として残されました。
曳舟川の名称は、舟に人を乗せて曳いていた曳舟に由来しています。江戸後期から明治初め頃にかけて、陸上交通と水上交通の合わせ技として曳舟はよく使われていました。江戸市中から下総、常陸方面に向かう旅人は少なくありませんでした。特に亀有村(葛飾区)から小梅村(墨田区)までの約7.4キロメートルは農作物の輸送舟や物見遊山の旅人が4、5人乗れる「サッパコ」と呼ばれる小舟の先端に綱を付け、その綱を人が土手を歩いて引いていました。
江戸時代には歌川広重の「江戸名所百景」にも描かれるほどの風光明媚な曳舟川でしたが、明治末期の荒川放水路の開削による河川が分断され、更には大正期以降は流域の都市化に伴って汚染が広がり、戦後の高度成長期にはメッキ工場からの排水が加わり瀕死の状態になっていました。その後、排水規制などによって水質は改善されたものの、現在は埋め立てられて「曳舟川通り」と呼ばれる道路になっています。
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