東藝術倶楽部瓦版 20200205:【江戸の川その41】本所の北を流れる川幅十間の川-「北十間川」

おはようございます。おはようございます。ニュースを見れば明けても暮れても新型コロナウイルスの話ばかりで、昨日も某民放テレビ局から急遽今回の感染症が日中経済関係にどう影響するのかについてのインタビューを受けました。まだまだ感染が拡大し続けていて収束の気配が見えない中で、その影響を明言することはできませんが、当然のことながら収束が遅ければ遅いほど、経済に対する悪影響は大きくなります。2003年のSARSの時は、中国がWTOに加盟し、経済情勢も上り調子であったために、発生から収束までに8カ月余りかかったにもかかわらず、経済が落ち込むことはありませんでした。しかし、今回は状況が違います。中国経済も減速傾向が顕著になる中で、更なる減速を加速させる可能性は大きく、日本企業にとっても先行きが見えない状況であることは間違いありません。とはいえ、状況が状況だけに今後どう推移するのかは分かりません。早期の収束を祈るばかりですが、冷静に対処するためにも、正しい情報把握に努め、適宜適切な対応策を検討しておくことが大事です。性急な判断は禁物です。

 

さて、本日は「北十間川(きたじっけんがわ)」について紹介したいと思います。北十間川は、江戸時代初期に開削された運河で、現在では荒川水系の一級河川となっています。総延長3.24キロメートルで、西側の隅田川と東側の旧中川をつないでいます。横十間川との合流点より西側は墨田区、東側は墨田区と江東区の区界になっています。北十間川の名称は、本所の北を流れる川幅が十間(約18.18メートル)の川であったことに由来しています。

 

明暦の大火後の万治元年(1658年)、本所開発の一環として木材輸送のために、隅田川の新小梅町(しんこうめちょう)〔墨田区向島一丁目〕と中ノ郷瓦町(なかのごうかわらちょう)〔墨田区吾妻橋一丁目〕の間から東に入る堀が開削されます。これが「源森川(げんもりがわ)〔源兵衛堀〕」です。この源森川に続く形で、寛文3年(1663年)に、東南に向かって開削されたのが北十間川です。北十間川の開削の目的は、主に農業用水確保のためでした。両河川の結節点からは南に向かって「大横川(おおよこがわ)」が流れており、北からは曳舟川が合流していました。源森川から続く北十間川は、請地村(うけじむら)〔墨田区押上・文化〕と柳島村(やなぎしまむら)〔墨田区業平(なりひら)〕の間を東に流れ、亀戸村〔江東区亀戸八丁目〕で旧中川に合流していました。

当初、源森川と北十間川はつながっていましたが、隅田川の増水時には両河川流域の洪水被害が著しいことから、寛文12年(1672年)に堤が築かれ分断されてしましました。その後、明治18年(1885年)に住民の要請により源森川と北十間川が再び接続されます。これによって隅田川と旧中川が最短距離で結ばれ、鉄道貨物との連携などで下町の物流に大きな役割を果たしていました。

 

現在は大横川との分流点に北十間川樋門が設置され再び東西が分断されているほか、大横川や曳舟川などのかつての接続河川の多くが埋め立てられおり、水運の機能はほとんで果たされていません。北十間川には、隅田川の寺島村〔墨田区堤通一丁目〕と須崎町〔墨田区向島五丁目〕との境界付近から南東に分流し、曳舟川と交差した後、押上村〔墨田区押上一丁目〕で北十間川に合流した「古川(ふるかわ)」も接続していました。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年2月 5日 08:06に書いたブログ記事です。

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