おはようございます。先週の日曜日から昨日の建国記念日の祝日まで、本来は月曜日の代休取得も含めて4連休のはずが、結果として出勤するほどの忙しさでした。さすがに土曜日は出勤はしませんでしたが、家でパソコンと向き合い作業に勤しんでいたことは事実です。我々のような組織は、中国が動きを止めている今は、本来は休み時なのですが、調査部はそんな悠長なことは言っていられません。情報の収集・分析・発信はもちろんのこと、各所からの問い合わせにも対応せざるを得ず、それに加えて委託事業の年度末報告書が二本、外部から依頼のあった原稿、毎月の月刊誌の編集、そして中国の新たな外資政策の法律施行に伴うハンドブックの作成と、3月末を控えてすべてを完成させなければなりません。私を含め調査部員は7名、それぞれ担当がいるとはいえ、そのすべてを統括する部長としての仕事は楽ではありません。日々刻々と情報が舞い込んでくる新型コロナウイルス感染、その経済への影響も我々の重要な仕事の一部として重く圧し掛かってきています。
さて、本日は「竪川(たてかわ)」について紹介していきたいと思います。竪川は東京都墨田区と江東区を流れる人工の河川で、江戸城に向かって縦(東西)に流れていることから、この名称となりました。
本所元町(墨田区両国一丁目)と本所千歳町(墨田区千歳一丁目)の間で隅田川から分かれた竪川は、真っ直ぐ東に流れ、亀戸村(江東区亀戸九丁目と大島九丁目)で旧中川に合流していました。現在もその流れは変化していませんが、全区間で上空には首都高7号線が走っており、大横川との交差地点から東側はほぼ暗渠となっています。
竪川は、他の隅田川東側の河川と同様に、明暦の大火を契機として、万治2年(1659年)に本所奉行の徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政が幕府の命により開通させた河川です。途中、大横川、横十間川(南十間川)などの河川と交差しています。竪川は、主に低湿地帯の排水路としての役割を担っていました。また、翌万治3年(1660年)の天下普請によって、神田川の拡幅工事も同じ時期に行われており、小名木川などとともに河川舟運としての補助的な役割も果たし、深川地域の発展にも大きく貢献したものと思います。
川が流れる江東地域は、江戸時代に整備された竪川などの水運に優れていたことから、明治以降は工業地域として発展していきます。その一方で、工業用水に地下水を利用したため、地盤沈下などの問題も発生しました。
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