おはようございます。明けても暮れても新型コロナウイルス感染のニュースでもちきりです。予想外の出来事によって日中間の行き来が途絶え、仕事にならないどころか、予定が狂ってその対応に追われる日々です。とはいえ、年度末に向けた作業を終わらせなければならず、昨日の日曜日もまた休日出勤でした。北京から東京に戻ったある中国機関の首席代表は中国政府から2週間の自宅待機を命じられ、電話での対応しかできないとのこと。本来業務に支障が出る日が続きます。
さて、本日は「六間堀(ろっけんぼり)」と「五間堀(ごけんぼり)」について紹介しようと思います。六間堀、五間堀ともに隅田川の東側に開削された運河で、現在はどちらも埋め立てられて消失しています。一部公園になっており、所々に昔を偲ばせる跡地もあるようですが、多くは道路に沿って住宅が立ち並んでいます。
まず六間堀ですが、これは堅川から本所松井町(墨田区千歳)辺りで南に分流し、現在の新大橋通りや深川芭蕉通りを超えて、西元町と常磐町(いずれも江東区常盤)の間で小名木川に合流していました。堀の名称は、文字通り川幅が6間(約10.9メートル)だったので名付けられました。
本所松井町と西森下町(江東区森下)の間、現在では小さな公園となっている六間堀児童公園辺りで六間堀より東側へ分かれていたのが五間堀です。この堀は、六間堀より分かれた後に東森下町(江東区森下)を流れて東元町(江東区森下)で堀留となっていました。五間堀の名称も、文字通り川幅が5間(約9メートル)であったことからその名が付けられました。五間堀は「瓢箪堀(ひょうたんぼり)」とも呼ばれていたようです。明治に入り、付近の地主であった元尾張藩主・徳川義宜(よしのり)によって五間堀の開削が進められ、明治10年(1877年)頃に小名木川まで貫通します。ただ昭和に入ると五間堀自体がすべて埋め立てられてしまいました。
この二つの堀の開削については、小名木川が慶長年間(1596年~1615年)、堅川が万治2年(1659年)の開削であったことから、ほぼ堅川の開削時期と同時期、或いは数年後であったものと思われています。江戸時代の書物、『府内誌残篇』によると、「六間堀、堅川の支流にして、堅川と同時に疎通す」とあるほか、『備考』には「五間堀、右は万治二年亥年中本所御奉行徳山五兵衛様、山崎四郎左衛門様御掛にて割堀に成りにて相成り申し候」とあります。このため、この二つの堀は万治2年頃に堅川と同時に整備されていたとも考えられます。六間堀、五間堀の開削の目的は、主に船の係留や補修のためであったものと考えられています。
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