おはようございます。今日は、中国人弁護士による新型コロナウイルス感染拡大に対する企業の対処方法に関するセミナーがあります。緊急セミナーということで、1週間前に参加募集案内を出したところ、アッという間に定員80名に達してしまいました。多くの人が集まるので、消毒用アルコールを準備しようと近所の薬局、ドラッグストアなどを回ったところ、すべて売り切れで在庫がなく、入荷するとすぐに売れてしまうとのこと。マスクにしてもそうですが、何かあるとすぐに買い占めが行われ、ネットで高額で取引がされるという、何とも醜い行為が横行します。次元の低さに何とも言えない焦燥感を覚えます。所用により、明日の瓦版はお休みします。ご了承ください。
さて、本日は「境川(さかいがわ)」について紹介してみようと思います。境川の川筋はほぼ現在の清洲橋通りにあたり、八郎右衛門新田(東京都江東区扇橋)で小名木川から分かれて東側に流れ、途中で横十間川と交差し、中田新田(江東区東砂)で合流していました。現在では周辺の田畑や舟運の減少によって水路の必要性がなくなり廃川、昭和5年(1930年)に道路となりました。
江戸時代、境川の周辺は「砂村新田(すなむらしんでん)」と呼ばれていました。万治2年(1659年)、相模国三浦郡(神奈川県葉山町)の砂村新左衛門が武蔵国葛飾郡「宝六島(ほうろくじま?)」〔江東区南砂〕を中心に436石の新田開発を行います。開拓当初は「宝六島新畠」と呼ばれていましたが、後に開拓者の名前をとって砂村新田と言われるようになりました。
境川の川幅は約19メートル、沢村新田の中央を流して田畑に用水を提供していました。北側の大塚新田・亀高村・治兵衛新田・久右衛門新田(江東区東砂、北砂)と南側の砂村新田・永代新田飛地(江東区南砂)の境を流れていたことから、境川と呼ばれました。
延宝9年(1681年)、江戸市中から排出されたごみの捨て場として永代島新田と砂村新田が指定され、低地の埋め立てが行われます。近郊農業としての促成栽培には、江戸の町から排出されるごみや堆肥が欠かせなかったのです。当時は難解性の化学物質や重金属などの有害物質がごみに含まれていませんので、砂村新田では江戸に野菜を供給するための近郊農業が盛んになります。砂村葱、茄子、胡瓜、西瓜などが栽培されていました
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