おはようございます。昨日、日比谷の帝国ホテルで開催された全国規模での勉強会で、1,000人以上の人が集まりました。ホテルの従業員は全員マスク着用での対応、至るところにアルコール消毒液が置かれ、物々しい雰囲気の中で行われた会合でした。現在、新型コロナウイルス感染防止のために、社員に会合出席を禁止する企業も増えてきており、我が職場が主催するセミナーや会議では、座席に余裕をもたせて、マスク着用を認め、消毒用のアルコールを設置しています。本当にこれで感染が防げるのかは疑問ですが、こうした措置を講じておくことが、来場者に対する「安心」を提供する配慮なのかとも思ってしまいます。本質的なところで何か間違っていないか、何となく違和感を感じるところです。
さて、本日は「仙台堀川(せんだいぼりがわ)」について紹介したいと思います。仙台堀川は、東京都江東区を流れ、隅田川と旧中川を結ぶ運河の一つです。以前紹介した神田川の御茶ノ水付近も、仙台藩が開削工事を請け負ったことから「仙台堀(せんだいぼり)」と呼ばれていますが、これとはまた別の運河を指しています。
仙台堀川は、清住町(江東区清澄)と深川佐賀町(江東区佐賀)との間で隅田川から分流し、東に流れて海辺新田(江東区千石)と石小田新田(江東区東陽)の間を経て、横十間川に合流しました。大横川と交差する辺りから下流は「三十間川(さんじゅっけんがわ)」とも呼ばれていました。横十間川との合流地点〔平井新田(江東区南砂)〕から東は「砂村川(すなむらがわ)」となり、その先で旧中川に合流します。現在、河川法では砂町運河と併せて仙台堀川となっています。
仙台堀川が開削されたのは寛永(1624年~1644年)以後とされ、主に運河として利用されてきました。江戸時代、仙台堀川の北岸に仙台藩邸の蔵屋敷があり、米などの特産物を運び入れていたことから、この名称で呼ばれていました。港区東新橋にあった仙台藩の芝口上屋敷の跡地には船着場の遺構が発見されており、仙台から蔵屋敷へ送られた物資は、そこから上屋敷に届けられていたものと思われます。
明治に入り、仙台藩の蔵屋敷は日本初のセメント工場「官営深川工場」が建てられ、現在「本邦セメント工場発祥之地」記念碑が残されています。現在、仙台堀川は大横川との合流地点から東側が埋め立てられ、延長3.7キロメートルの親水公園「仙台堀川公園」となっています。
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