東藝術倶楽部瓦版 20200228:【江戸の川その52】よろず吉原「山谷堀」

おはようございます。昨日は所用により瓦版をお送りできず、失礼しました。それにしても新型コロナウイルスによる影響は様々な方面に広がりをみせています。昨日のニューヨーク株式市場も大幅な下落が続き、欧州市場も巻き込んで世界同時株安が進んでいます。日本でも株安に加え、大手企業でも在宅勤務による業務遂行を決めたところもあり、大型に限らずイベント開催は自粛ムード、更に安倍首相も公立小中学校の3月2日からの臨時休校を要請するなど、国民全体の行動が大きく制限される事態になっています。

 

さて、本日からは隅田川の西側に移ってみましょう。先ずは「山谷堀(さんやぼり)」について紹介したいと思います。山谷堀は、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐために、箕輪(三ノ輪)〔東京都台東区〕から大川(隅田川)の出入り口である今戸(台東区)まで開削された堀割です。具体的な開削時期は定かではありませんが、もともとこの地にあった「澪(みお)」がその原型だったのではないかとの説もあります。「今戸堀(いまどぼり)」とも呼ばれ、音無川(石神井用水)の下流部分にあたります。現在は埋め立てられて、日本堤から隅田川入り口までの約700メートルは「山谷堀公園」として整備されています。

 

山谷堀が開削された正確な年代ははっきりしていません。水源は石神井用水(音無川)で、水流は根岸(台東区)から三ノ輪を通って隅田川に続き、隅田川西岸の今戸には、船着場が設けられていました。山谷堀は船の出入りが多く、特に夏の夕方は絵のように美しい景色が見られたそうです。山谷堀には、隅田川側から「今戸橋」、「聖天橋」、「吉野橋」、「正法寺橋」、「山谷堀橋」、「紙洗橋」、「地方新橋」、「地方橋」、「日本堤橋」の9つの橋が架かっていました。

 

山谷堀の南側には「日本堤(にほんづつみ)」が築かれており、それによって荒川の洪水が浅草方面に及ぶのを防ぐことができました。今戸橋から吉原遊郭(台東区千束)までは、俗に「土手八丁」とも呼ばれていたそうです。

 

明暦の大火の後、今の台東区千束に移転した新吉原遊郭に通う水上路として使われたのが、この山谷堀です。「よろず吉原、山谷堀」。隅田川から猪牙舟に乗って遊郭入り口の大門近くで下船し、遊郭に通うことを「山谷通い」とも言っていました。山谷堀沿いに設けられた日本堤を陸路で吉原に向かうよりも、水路で通う方が「粋」とされていました。あまりの賑わいに、単に「堀」と言えば、この山谷堀を指していたとのことです。

 

山谷堀界隈には船宿や料理屋が建ち並び、河口岸にあった有明楼などでは芸者遊びができたそうです。近隣の猿若町(台東区浅草)には歌舞伎で有名な江戸三座があったことから、山谷堀芸妓のことを「櫓下(やぐらした)」とも呼んでいたそうです。

 明治以降、吉原の遊興の場としての地位は廃れ、山谷堀も次第に埋め立てが始まっていきます。戦後の売春防止法による吉原閉鎖によって、昭和50年(1975年)に山谷堀はすべて埋め立てられてしまいました。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年2月28日 07:59に書いたブログ記事です。

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