2020年3月アーカイブ


おはようございます。東京をはじめ、日本でのコロナウイルスの感染拡大が止まりません。首都圏では外出自粛が勧告される中、昨日は雪が降ることで、都心でもかなり人通りが少なくなりましたが、それでも出歩く人は後を絶たないようです。世界的に人の移動が大きく制限されると、経済がこれだけグローバルに、そして複雑に絡み合っているために、それによる連鎖の広がりを推し量ることはできません。何がどう影響し、それが足し算なのか掛け算なのか、或いは累乗なのかは、その時の状況次第で変わってくるので、神でも予想するこは不可能でしょう。今、この地球で行っているこは、すべてが自分たちの行動の結果だと思うことです。


 


さて、本日は「箱崎川(はこざきがわ)」について紹介しようと思います。箱崎川は、隅田川の日本橋中洲から日本橋川の現在の亀島川分岐点までの本流1.06キロメートルと、本流から現在の日本橋箱崎町と中洲の境で分岐して隅田川に流れる支流0.12キロメートルで構成されていました。


 


上流から流れてきた日本橋川は、北新堀町(日本橋箱崎町)と南新堀町(中央区新川)を結ぶ湊橋(みなとばし)の手前で、東側から流れ込む箱崎川、西側に向かう「越前堀(えちぜんぼり)」と交差した形となっていました。箱崎川には崩橋(くずればし)、越前堀には霊岸橋(れいがんばし)が架けられていました。

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この短い箱崎川沿いには、行徳河岸、蛎殻河岸、永久河岸、菖蒲河岸があり、多くの蔵が建てられていたそうです。箱崎側には浜町堀や稲荷堀に通じており、隅田川、日本橋川、小名木川、浜町堀など江戸の運河を利用する水運の中継地点として、多くの船が行き交っていました。


 


「山もありまた船もあり川もあり、数はひとふたみつまたの景」〔半井卜養(なかいぼくよう)〕と詠われたように、隅田川河口に堆積した中洲の影響で、川が三方に分かれた地点を「三ツ又」、「三ツ俣」、「三ツ股」と呼ばれていました。三方とは、隅田川本流、中洲西岸の箱崎川、中洲南側の箱崎川支流の三方向に分かれる場所です。別名、「三ツ又別れの淵」とも呼ばれ、この付近が淡水と海水の分かれ目にあたっていたと考えられています。


 

昭和46年(1971年)、高速道路及び東京シティエアターミナル建設のために箱崎川本流が埋め立てられ、翌昭和47年(1972年)には支流も埋め立てられて箱崎川は消滅しました。

おはようございます。東京オリンピック・パラリンピックの延期が決まりました。東京でのコロナウイルス感染の拡大を考えれば、そう考えざるを得ません。連日の株価の乱高下、移動の制限やイベントの自粛、デマによる買い占めなど、世界全体が清濁混合の情報に翻弄され、一体何が起きているのかが分からなくなっています。意図的か意図的でないにせよ、これこそまさにこれまでの地球人が自然に対して行ってきたことの総決算ではないかと思えます。自然に利することをやってくれば、その見返りも己の「利」となって返ってくるでしょうし、自然を破壊することをすれば、その見返りも己の「破壊」につながります。「因縁果報」、今こそこの言葉を噛みしめて自らの行動を見直すことが肝要ではなかいと思います。もちろん、間に合えばですが...。明日と明後日は所用により、瓦版は休刊とさせていただきます。ご了承ください。

 

さて、本日は「稲荷堀(とうかんぼり)」について紹介しようと思います。稲荷堀は、箱崎川から蛎殻町(中央区日本橋蛎殻町)と小網町(日本橋小網町)の間で分かれて北西方向に流れ、東堀留川に通じていた水路です。

 

蛎殻町や小網町一帯は、この堀を利用して各種の荷物が船で運ばれていたことから問屋が多く集まっていました。特に瀬戸物問屋が多かったようです。

 

箱崎川からの堀の出入口にあった行徳河岸は、寛永9年(1632年)以来、この堀と下総国行徳村とを結ぶ場所として、行徳からの塩の受け入れ地となっていました。また、江戸から下総への唯一の交通路として多くの船が出入する賑わいをみせていました。

稲荷の名称については、安藤対馬守の屋敷地の西方に稲荷(いなり)神社があったことから、稲荷の音読「とうかん」としたとされています。また、土居甲斐守屋敷前を流れていたので、「土居堀(どいぼり)」とも呼ばれていました。この堀に沿って播磨国姫路藩酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷があり、明治維新の後にその屋敷の一部が西郷隆盛の屋敷になりました。現在、堀の跡には「とおかん通り」という道路になっており、日本橋小学校の前身である「東華(とうか)小学校」の校名も「稲荷(とうか)」にちなんで名付けられたということです。

おはようございます。昨日、大手電機メーカーであるH製作所の中国総代表が交代のあいさつで来会されました。帰国後、14日間の喪が明けた(コロナ対策の自宅待機)とのことで、後任を連れての挨拶だったのですが、メーカーは商社や銀行と違い、工場という現場があるので、在宅でネットでのワークができないので、とにかく制限がある中で日中間を頻繁に行き来しなければなりません。オフィスビルや自宅マンションはもちろんのこと、コンビニや銀行のATMに入るにしても検温され、体温が37.3℃以上あると中国人・外国人に限らず即隔離、ということで、人権などという概念がない中国ならではの厳しい隔離政策ができたからこそ、ある程度の封じ込めができたということです。ですから、中国でコロナ感染が収束に向かっているという発表は正しいだろうとのことでした。そう言われてみると、中国を知っている人であれば、何となく納得してしまうでしょう。もちろん、日本や欧米ではできません。できるのは中国と北朝鮮だけでしょう。非常に生々しい話を伺うことができました。

 

さて、本日は「西堀留川(にしほりどめがわ)」について紹介したいと思います。前回紹介した東堀留川と同様に、西堀留川も石神井川支流を上流から埋め立て、河口部を埋め残して作られた水路で、東堀留川の西側に平行して設置されていました。

 

日本橋川に架かる江戸橋の東北角、本船町(中央区日本橋本町)と小網町(日本橋小網町)の間から北西に向かい、堀留町(日本橋本町)の手前で西に折れて、室町(日本橋本町)で堀留となっていました。堀留の先には「浮世小路」と呼ばれる小道があり、その先には通町筋(中央通り)に通じていました。この堀の北側には本町通り(旧日光街道)が平行して走っていました。

 

堀留町から西に折れて堀留までの区間は「伊勢堀(いせぼり)」又は「伊勢町堀(いせちょうぼり)」とも呼ばれ、日本橋地域のほぼ中央に位置していたことから、日本橋界隈にとって重要な物流拠点であったことが分かります。日本橋川との合流地点から北に向かう堀の西岸には米河岸、東岸には小舟河岸、西側に折れた伊勢堀の北側には伊勢町河岸と北塩河岸、南側には南塩河岸がありました。小舟河岸蔵の東には浮世絵の版元である「伊場仙」が大きな屋敷を抱えていました。伊場仙は現在でもその付近で扇子と団扇の専門店として小さな店を構えています。

 西堀留川も数百メートルの短い水路で、伊勢堀の分だけ東堀留川よりも長くなっています。架けられていた橋は、河口側から荒布橋(あらめばし)、中之橋(なかのはし)、西に折れて道浄橋(どうじょうばし)、雲母橋(きららばし/きらずばし)の4つです。西端の塩河岸跡地には、現在は復元された福徳神社が建っています。

 

この西堀留川も、伊勢堀が明治19年(1886年)に埋め立てられ、その後関東大震災で生じたガレキ処理のために、残りの日本橋川に繋がる部分も昭和3年(1928年)に埋め立てられ、水路は消滅しました。

おはようございます。欧州での新型コロナウイルス感染の拡大が止まりません。世界的な脅威はそればかりではありません。アフリカ東部で発生したバッタの大群がアジアにも押し寄せてきている蝗害による被害も、今後の世界的な食糧需給に大きな影響を及ぼす可能性があります。各地で多発する地震や火山噴火、異常気象。この地球でいったい何が起きているのでしょうか?

 

さて、本日は「東堀留川(ひがしほりどめがわ)」について紹介してみましょう。東堀留川は、日本橋川から小網町(中央区日本橋小網町)から北側に入り込む入堀で、堀江町(日本橋小舟町)に沿って堀留町二丁目地先(日本橋堀留町)で留まっていました。この西側には「西堀留川(にしほりどめがわ)」がありました。

 

この東堀留川の堀留とは、川を上流から埋めていき、下流部を埋め残す形で作られた水路です。江戸時代以前は、東堀留川及び西堀留川と日本橋川の合流付近は海岸線で、一説によると不忍池やお玉が池と流れてくる石神井川の下流部だったと考えられています。江戸幕府の河川改修により、この河口付近から日本橋川の原型となる「道三堀(どうさんぼり)」が江戸城に向かって掘り進められ、道三堀の先に陸地を造成、その上流部には神田川が開削されました。これにより、不忍池から流れてくる石神井川の流路が断たれ、下流部を掘り残して堀留とする一方、上流部は開削した神田川に付け替えたというわけです。

 

東西に掘り残された堀留川は、船荷の一大集散地として賑わいを見せていたようです。堀には船着場が設けられ、米河岸、塩河岸、小舟河岸、西方河岸、東方河岸、末広河岸など、日本橋の問屋街への表玄関として繁盛していました。東堀留川には、煙草河岸、東方河岸、西方河岸がありました。この数百メートルという短い堀にも、日本橋川から思案橋(しあんばし)、親仁橋(おやじばし)、萬橋(よろずばし)の3本の橋が架かっていました。

こうして賑わいを見せた東堀留川ですが、現在の江戸桜通りより上流は、昭和3年(1928年)に関東大震災のガレキで埋め立てられ、その後、昭和23年(1948年)に戦後の残土処理のために埋め立てが始まり、翌昭和24年(1949年)にその姿を消しました。現在、東堀留川の跡の一部は堀留児童公園になっています。

おはようございます。愛知県蒲郡市で新型コロナウイルスに感染しながら、ウイルスをばらまくと言ってフィリピンパブを訪れ、実際に従業員1名が感染したことで問題になっていた50歳代の男が、コロナウイルスによる肺炎で亡くなったとのことです。肝臓がんを患っていたようですが、つい先日まで元気な様子だった姿をテレビ画面で見ると、タイミングといい、結末といい、何か因縁めいたものがあるように思います。昨晩、NHKの解説委員と会食した際にも、この件が話題になり、表では言えないけれど何か裏があるのではないかと、冗談交じりではありましたが、盛り上がっていました。このような悪い心根を持っていると、ウイルスもその気を受けて活性化し、その身体にも害を及ぼしてしまう...というのは考え過ぎでしょうか?

 

さて、本日は「龍閑川(りゅうかんがわ)」について紹介していきたいと思います。龍閑川は、日本橋川に通じる江戸城外堀を鎌倉河岸の東端、すなわち龍閑町・西今川町(千代田区内神田)と本銀町(中央区日本橋本石町)の間で分流し、東北に向かって流れ、亀井町(中央区日本橋小伝馬町)で浜町堀と合流していた人工の堀です。「神田堀」、「神田八丁堀」、「銀(しろがね)堀」などとも呼ばれていました。

 

明暦3年(1657年)の明暦の大火の後、江戸市中に大規模な防火対策が施された際に、江戸城外堀の東北側には長さ八丁(約870メートル)の防火堤防が築かれました。天和3年(1983年)頃までには堤防の周辺が火除地となっていましたが、元禄4年に江戸城外堀と浜町堀をつなぐ割堀が町人の負担によって作られました。その目的は、主に物資運搬用の水路として利用するためでした。この堀は日本橋と神田の境界とされ、当初は神田八丁堀、銀堀と呼ばれており、後に龍閑川と呼ばれるようになりました。

 龍閑川の名称の由来は、日本橋川河口付近に江戸城殿中接待役の井上龍閑の屋敷があったからと言われています。龍閑川は「竜閑川」と表記されることもあります。この龍閑川を使った水運物流によって、日本橋や神田一帯は大きく発展することができました。

 

安政4年(1857年)、龍閑川はいったん埋め立てられます。明治16年(1883年)に、東京市の水運の発展とともに堀留として残っていた浜町堀を神田川まで延伸させる工事が行われ、その際に龍閑川も再び堀割されることになりました。その後、戦後のガレキ処理のために昭和23年(1948年)から再度埋め立てが始まり、昭和25年(1950年)には水路としての龍閑川は消滅しました。現在、外堀通りの交差点には「龍閑橋」の名称が残っています。

おはようございます。株式市場が完全に混乱状態にあります。最近の株価の超乱高下は異常な状態です。新型コロナウイルスに世界全体が翻弄され、政治、経済、社会全体がおかしくなってきています。ウイルス対策も先が見えず、取り敢えず人の往来をシャットダウンすることで感染を防ぎ、自然に収まるのを待つだけの日々を過ごす。結局、人間の無力さを思い知らされたわけです。こんな状態で、各国政府がウイルスの封じ込めに成功した...などと、声高らかに宣うならば、人々の嘲笑をかうだけのことでしょう。

さて、本日は「浜町堀(はまちょうぼり)」について紹介しようと思います。浜町堀は、「浜町川」とも呼ばれ、下流側は浜町(中央区日本橋浜町)と蛎殻町(日本橋蛎殻町)の間で箱崎川を経て大川(隅田川)に注ぎ、上流側は亀井町(日本橋小伝馬町)で「龍閑川(りゅうかんがわ)」に繋がっていました。龍閑川については後日紹介しますが、江戸城外堀につながっていました。

浜町堀が最初に開削されたのは元和年間(1615年~1623年)の頃で、埋残し工法による水運のために作られたものです。埋残し工法とは、船着場を設けるための行き止まりの水路を建設する工法で、大川から流れ込む入堀でした。

の川筋を元禄4年(1691年)に北側に延長して龍閑川と直角に合流させ、外堀につなげるようにしました。外堀は日本橋川にも繋がっており、これによって日本橋の賑わいが加速されることになったのは言うまでもありません。

明治16年(1883年)に、この水路は更に延長されて神田川に合流します。しかし、戦後は戦後の残土で埋め立てられて、現在、浜町堀の一部は「浜町緑道公園」となっています。

おはようございます。明日、3月14日から東京の山手線の新駅「高輪ゲートウェイ駅」が開業します。新型コロナウイルスの影響で、どれだけの人が集まってくるのか分かりませんが、新しモノ好きの日本人としては一度のことだからということで、それなりに賑わうのではないかと思います。もちろん、人混みが嫌いな私は行くつもりはありません...というか、用事もないのにわざわざ駅を見に行くほど鉄道好きでもありません。この「高輪ゲートウェイ」の駅名が、甚く評判が悪い。江戸時代にあった「高輪大木戸」をイメージした名称のようですが、横文字に拘りのない私とすれば、それならそのまま「高輪大木戸駅」でよいのではないかと思う次第です。グローバル化の流れで、何かと横文字が使われるようになった今日ですが、果たしてその意味が本来の日本語の概念と同じか否かを、よく考えてみる必要があります。来週、所用により月曜日16日、火曜日17日の瓦版はお休みさせていただきます。

 

さて、本日はもう一つの「藍染川(あいぞめがわ)」について紹介したいと思います。以前、染井霊園辺りを水源として不忍池に注ぐ谷田川の下流部にあたる「藍染川」を紹介しましたが、今回紹介する藍染川はそれとは別の河川です。

 

この藍染川の水源がどこかははっきりしていません。しかし、明治5年(1872年)の『東京府志料』によると、「水源は新石町ヨリ東流シテ神田鍛冶町紺屋町ヨリ神田富松町ニ至リテ神田川ヘ入ル小溝ナリ 此水紺屋町辺を流ルゝ故ニ藍染川ノ名アリ」とあるように、「新石町(しんこくちょう)」〔千代田区内神田三丁目辺り〕から現在の神田駅西口通りを東に流れ、「神田鍛治町(かんだかじちょう)」〔鍛冶町〕、「紺屋町(こんやちょう)」〔神田紺屋町、岩本町〕より「神田富松町(かんだとみまつちょう)」〔東神田〕に流れて、「美倉橋(みくらはし)」〔新シ橋(あたらしばし)〕の下流で神田川に合流していました。

 

この川の長さは3424間(約3.75キロメートル)、幅は2~3間(3.65.5メートル)、深さ1間~5尺(1.51.8メートル)とあり、比較的小さな川であったことが分かります。先の『東京府志料』にあるように、当時、紺屋町辺りには染物屋が多くあって染物をこの川で晒していたことから、藍染川の名が付けられたものと思われます。現在では染物屋の影をみることはありません。

江戸時代、藍染川が神田川に流れ込んでいた手前のところに「下水溜」があり、ここに杭を打って、川を流れてきたごみをくい止めてすくい上げていました。明治に入り、「神田下水」が造られることになって、この藍染川も埋め立てられたということです。

おはようございます。WHOがついに今回の新型コロナウイルスの感染拡大に対してパンデミックとの認識を示しました。中国では感染者数の増加が少なくなりつつあるものの、米国や欧州ではますます拡大する方向にあり、日本では拡大しているのか否かの判断すらできない状況にあります。ニューヨーク株式市場ではダウ平均がまたもや大幅に下落。いったい世界で何が起きているのか、この先どうなるのか? 最初に今回の混乱を仕掛けた者ですら、予想外の展開になっているのではないでしょうか?

 

さて、本日は「鳥越川(とりごえがわ)」について紹介しようと思います。鳥越川は、先に紹介したように、不忍池から流れ出た忍川が三味線堀に至り、三味線堀から隅田川に至るまでの流路を指します。もともと三味線堀は寛永7年(1630年)に鳥越川を掘り広げて造られたものでした。

 

三味線堀を流れ出て南に向かった鳥越川は、西鳥越町(台東区鳥越一丁目)の地先で東に向きを変え、現在の蔵前橋通り(元鳥越町から福富町辺り)とほぼ平行に南側を流れ、向柳原町(浅草橋)で南に鍵の手に曲がり、そのすぐ先で東に曲がって「御蔵」の外側を廻るようにして隅田川に注いでいました。先に紹介した新堀川も浅草橋で鳥越川に合流していました。この鳥越川も、大正12年(1923年)の関東大震災以降、次第に埋め立てられ今は暗渠になっています。鳥越川には、現在の須賀橋交番前交差点辺りに「鳥越橋」が架かっていました。「須賀橋」、或いは「天王橋」とも呼ばれていました。

 

蔵前橋通りの浅草橋三丁目交差点の近くに「鳥越神社」があります。この神社の創建は白雉2年(651年)と言われ、かなり古いことが分かります。日本武尊が東征の折にこの地に滞在し、その遺徳を偲びこの地にあった白鳥山に「白鳥大明神」を祀ったのが始まりとされています。永承年間(1046年~1053年)の頃、奥州征伐に向かう八幡太郎源義家が白鳥に浅瀬を教えられ、軍勢が安全に川を越えることができたことから、義家は白鳥大明神のご加護に感謝して「鳥越」の社号を贈ったと伝えられています。鳥越川の名称は、この鳥越神社からきています。ちなみに、白鳥山は小山であったようで、正保2年(1645年)頃から切り崩され、隅田川河岸の埋め立てに使われ、跡地は町屋になったとのことです。

 越川が農産物や建築資材、汚わい(糞尿)等生活物資の運搬に利用され、三味線堀がそれら運搬船の船溜りだったことは、前回紹介した通りです。

おはようございます。今日で東日本大震災から9年が経ちます。震災復興も掛け声だけで遅々として進まず、原発の事故処理に至っては先がまったく見えていない状態で、福島ではまだ4万超の人が避難生活を送っています。これだけ酷い状態が続いているにもかかわらず、相変わらずの体制で問題解決を図ろうする政府や東電の姿勢は理解できないし、専門家と言われる研究者の無能さを指摘せざるを得ません。そして何よりもそれを良しとしている国民の愚かさにも呆れるばかりです。日本という国の衰退の兆候が各所で見えているのも納得できるわけです。

 

さて、本日は「三味線堀(しゃみせんぼり)」について紹介したいと思います。三味線堀については、前回の忍川で、不忍池より流れ出た水が忍川を通って三味線堀を経由して鳥越川、そして隅田川に流れ込むとの説明を行いました。

 

三味線堀は、現在の清洲橋通りに面して、小島一丁目の西端に南北に広がっていました。台東区の説明によると、寛永7年(1630年)に鳥越川を掘り広げられて造られ、その形状から三味線堀と呼ばれたとあります。また、一説に浅草猿屋町(浅草橋)の小島屋という人物が、この土砂で沼地を埋め立て、それが小島町になったとのことです。

堀には二つの船溜まりがあり、下肥、木材、野菜、砂利などを輸送する船が隅田川から往来していました。二つの船溜まりは東西約50メートル、南北約30メートルで、それを長さ190メートル、幅10メートルの堀割でつないでいました。

 

堀の西側には秋田佐竹藩の上屋敷があり、天明3年(1783年)に三階建ての高殿が建設されました。これにちなんで大田南畝は、「三階に三味線堀を三下り二上り見れどあきたらぬ景」という狂歌を残しています。

 

江戸から明治にかけて物資の集散所として賑わっていた三味線堀も、明治末期から大正にかけて、市街地の整備や陸上交通の発達に伴い、次第に埋め立てられていき、大正6年までにはほとんど埋め尽くされてしまいました。今は、台東区設の三味線堀市場の名称だけが残っています。

おはようございます。昨日のニューヨーク株式市場ではダウ工業株30種が2,000ドルという過去最大の急落をみせています。ここ2、3日で円高ドル安が進行し、原油価格も大きく下落。そのすべてが新型コロナウイルスの感染拡大に伴う景気の先行きに対する懸念という一言に帰されています。専門家と言われる人の意見を聞いた日本国政府は、過度に恐れる必要はないと言いますが、政府自身の措置や各国政府の対応をみれば、明らかに大衆を過度に恐れさせる方向に導いています。このように、言っていることとやっていることが正反対の現状をみれば、国民からの信頼がますます失われていくことは必至です...と言いたいところですが、国民も国民でそのことに気が付いていないことに、歯がゆい思いをせざるを得ません。こんな日本に誰がした!

 

さて、本日は忍川に架かっていた「三橋(みはし)」について紹介しようと思います。三橋は、現在の上野公園入口南側の広場辺りに架かっていた三つの橋を指します。橋が架けられた詳しい年代は分かっていませんが、元禄10年(1697年)には下谷広小路(台東区上野広小路)の登場とともに三つの橋が架けられていたことが、当時の絵図から分かります。ただ、延宝年間(1673年~1681年)から天和3年(1683年)の絵図には一つの橋しか確認できません。

元禄10年といえば、上野寛永寺の根本中堂が建設中で、翌元禄11年(1698年)に完成します。このほか、元禄年間には山門である文珠楼や清水堂が完成するなど、寛永寺が徳川将軍家の菩提寺としての地位を揺ぎ無くした時期でもありました。ですから、三橋の建設や下谷広小路の設置もその整備の一環として行われたものと思われます。

 

三つの橋の真ん中の橋は「御橋(おはし)」と呼ばれ、徳川将軍が菩提寺である寛永寺に参詣するときに渡る橋で、将軍以外に渡ることができなかったとされています。普段、一般の人が渡る際には、両側の橋を利用していました。三橋という名称は、この三つの橋からきています。

 

「広小路元仁王門前にて忍川に架せり、三橋並びあるゆへ呼名とす。中の橋は御成通にして幅六間余あり、左右は幅弐間許、三橋共長三間余の板橋なり」(『御内府備考』)

 

この記述からすると、真ん中の橋の幅は6間(約10メートル)、両側の橋はそれぞれ2間(約3.6メートル)、長さはそれぞれ3間(約5.4メートル)あったことが分かります。

 

この三橋は、明治以降に忍川の暗渠化とともに姿を消すことになります。

おはようございます。コロナウイルスの経済への影響が懸念される中で、ふと気になったのが、なぜこの時期かということです。今年最大のイベントといえば、東京オリンピック・パラリンピックの開催です。その経済効果は直接的効果・レガシー効果を含めて約32兆円(開催の決まった2013年~開催10年後の2030年まで)と試算されており、うち開催までの8年間で21兆円、開催後の10年間で11兆円となっています。仮にここで開催が中止となれば、3兆円ともくされているオリンピックの開催費用のうち、これまですでに投資された資金が無駄になるばかりでなく、開催に伴う経済効果、更にはその後の将来利益までが失われることになります。これは日本経済にとって壊滅的な打撃となることでしょう。しかも、日本の最大の貿易相手国・中国との間での経済関係も大きく縮小されることが予測されているわけです。陰謀説の立場に立てば、日本経済に壊滅的な打撃を与え、日本経済を牛耳る格好の機会なのかもしれません。

 

さて、本日は「忍川(しのぶがわ)」について紹介しようと思います。忍川は、上野の不忍池を水源として、東南端の上野黒門町(台東区上野)から東に流れる河川です。不忍池を流れ出た水は、下谷西町(東上野)付近で南下し、西町と竹町(春日通り筋)を東に流れて、小島町(小島町)の西側で「三味線堀」に注いでいました。川の下流は、この三味線堀から、さらに鳥越川が続くことになります。

 

忍川の成立時期は定かではありません。正保年間(1644年~1647年)に作成されたとされる絵図には、不明瞭ながらも川らしきものが描かれており、延宝年間(1673年~1681年)から天和年間(1681年~1684年)の絵図には、不忍池から東側に流れる川の存在がみてとることができるとのことです。発掘調査によると、忍川は自然の河川ではなく、藍染川が流入する不忍池の排水のために人工的に開削された水路とのことです。

当初、不忍池の東南端が落口となって三橋方面へと続いた水路ですが、文政3年(1820年)頃には不忍池の湖畔の西部から南部にかけて土手が形成されて堀ができ、北端から流入する藍染川と忍川が堀で繋がります。そして、忍川から三味線堀、鳥越川を通じて隅田川へと抜ける水路が完成しました。不忍池畔に土手が築かれたのは延享4年(1747年)から宝暦2年(1752年)にかけてのことで、不忍池の浚渫によって出た泥土を使って土手を築きました。

 

この土手ができたことで、池の南側の仲町から茅町までの土手は「新地」と呼ばれ、料理茶屋、楊弓場、講釈場などができて賑わい、寛永2年(1749年)には弁天島から茅町土手に向かって四つ折りの橋が架けられました。水面に反射して橋が八つに見えたことから、「八つ橋」と呼ばれ、名所になりました。こうして新地が盛り場として賑わい始めたのですが、出会い茶屋による風紀の乱れと汚水の放流によって河川の汚染がもたらされたことから、宝暦2年(1752年)に幕府は茶屋の撤廃と八つ橋の撤去を命じます。

 

その後、文政3年(1820年)には再び土手が造成されます。三橋寄り池の落口から茅町裏まで、長さ6~7町(約650760メートル)、幅6~7間(約1013メートル)で、汚水が池に入らぬよう土手と南側の切り落としの間に幅3間(約5.3メートル)の隙間を設けたそうです。

 

明治に入り、藍染川が不忍池の手前で分岐して、池に流入する流れと池の周囲をたどって忍川へつながる流れが作り出されます。その後、明治末期には暗渠化が進み、大正初期には完全に暗渠となって忍川は姿を消しました。

おはようございます。昨日、4月に予定されている中国の習近平国家主席の訪日について、外務省から延期の通達がなされるとの情報があり、茂木外務大臣や菅官房長官などの発言が注目されていましたが、結果としてそのような趣旨の発言はありませんでした。中国側外交部の定例記者会見も同様で、現時点では予定通りの来日日程で準備が進められています。無駄な作業が続くのかもしれません。明日は所用のため、瓦版をお休みさせていただきます。

 

さて、 本日は「藍染川(あいぞめがわ)」について紹介しようと思います。隅田川の西側を流れる藍染川には、染井霊園付近(豊島区巣鴨)の長池を水源として台東区上野の「不忍池(しのばずのいけ)」に注ぐ流れと、新石町(千代田区内神田)を水源として神田川に流れ込んでいた流れの2本の川があります。ここでは、長池から不忍池に流れ込む藍染川についてみていきます。

 

藍染川は、巣鴨や王子辺りを水源として、現在の東京都北区、荒川区、文京区を通って台東区の上野不忍池に注ぎ込んでおり、現在は流域のすべてが暗渠となっています。藍染川といっても、そう呼ばれるのはこの流れのほんの一区間、すなわち台東区根津付近から不忍池までの流れで、水源から根津付近まではそれぞれ違う名称で呼ばれています。水源から西ヶ原(北区)までは「谷戸川(やとがわ)」、駒込付近(豊島区)では「境川(さかいがわ)」、田端付近(北区)では「谷田川(やたがわ)」、その後は「蜆川(しじみがわ)」、「蛍川(ほたるがわ)」と名前を変え、藍染川となります。短い河川ですが、それぞれの地元にとっては生活に密着した親しみのある流れではなかったかと思います。

 

先ほど藍染川の源流は染井霊園にある長池と紹介しましたが、元々は石神井川ではなかったかと言われています。約6000年前に起きた有楽町海進によって崖端浸食(がけばたしんしょく)により河川争奪が起こり、石神井川の流路が変更されて隅田川に流れ込むようになり、分断された藍染川の水源が長池周辺の湧き水になったというのです。つまり、石神井川の下流部は元々藍染川であったのではないかと。とはいえ、江戸時代には長池からの流れが藍染川となって不忍池に流れ込んでいた事実は変わりません。もちろん、水源は長池に限らず、周辺の湧き水が集まってその流れを形成したものと思われます。

水源とされる長池は、江戸時代末期、巣鴨の御薬園と伊勢津藩・藤堂家32万石の抱え屋敷にまたがる広大な池で、長さは158メートル、幅は32メートルもあったと言われています。現在は埋め立てられて都立の染井霊園の一部になっています。

 

藍染川の語源は、読んで字のごとく、川筋に染物屋があって、川の色が藍色に染まっていたからだというのが有力です。もう一つ、根津にあった遊郭の遊女との関連で、「初めて会う」にかけて名付けられた説もあるようです。

おはようございます。新型コロナウイルスの影響を受けてか、株価が乱高下しています。影響を受けるというよりも、翻弄されていると言った方が適切かもしれません。米国FRBも政策金利の緊急利下げを行い、投資家はリスク回避のために株式を売り、昨日大幅に株価を戻したニューヨーク株式市場は再度大きな下落をみせています。金利が下がると企業は設備投資に資金を回し、景気が回復するとの見方から株価が上がることもあり、単純に政策金利の上げ下げで株価の上下が予測できるわけではありませんが、それにしても経済の混乱が続く背景には新型コロナウイルス感染があり、そしてその更なる背景には一体何があるのでしょうか?

 

さて、本日は「石神井用水(しゃくじいようすい)」について紹介しようと思います。石神井用水は、前回紹介した石神井川の水を王子神社(東京都北区王子本町)とその南にある飛鳥山(北区王子)の間で堰き止め、東側に流した用水のことです。別名、「王子川(おうじがわ)」、或いは「音無川(おとなしがわ)」と呼ばれています。

 

石神井川の水を堰き止めた堰が、前回も紹介した明暦2年(1656年)に建設された「王子石堰(おうじいしぜき)」です。王子から、田端、西日暮里、日暮里と現在のJR山手線に沿って流れ、日暮里駅前から、荒川区と台東区の区境を流れています。三ノ輪でその流れがいくつかに分かれます。北東方向は「石浜川(いしはまがわ)」、南東方向は「思川(おもいがわ)」となり、明治通り沿いに泪橋を抜けて白髭橋付近で隅田川に注ぎます。もう一つの流れは、日本堤沿いに流れて山谷堀に通じていました。

明治時代になると、北側に分水される「根村用水」、「上郷用水」に対して「下郷用水」と呼ばれ、下郷18カ村で石神井用水組合を結成し、農業用水として管理されていました。しかし、その後は宅地化が進み、昭和の初めには管理組合も廃止されてしまいました。

 

江戸時代には蛍も飛び交うほどの清水でしたが、次第に水質が悪くなり、昭和9年(1934年)には暗渠化されて、現在は下水道となっています。

おはようございます。我々中国との経済交流の専門団体でも、中国との行き来が止まっています。本来であれば、中国への出張も2、3回はあるのですが、予定されていたいくつかの重要イベントも延期となり、夏以降にずれ込むことになりそうです。そうなると、数多くのイベントが9月以降に集中して行われることになり、日程調整のみならず、複数の会議の準備や打ち合わせを同時並行で行わなければなりません。どう効率的に進めるのか、人の配置や進め方を工夫していくことになります。予定されている4月上旬の習近平国家主席来日もどうなるのか、早急なる政府の判断が待たれるところです。

 

さて、本日は「石神井川(しゃくじいがわ)」について紹介してみたいと思います。石神井川は、荒川一級水系に属する一級河川で、東京都小平市花小金井南町にある小金井ゴルフ場を水源に、北区堀船の隅田川合流地点までの全長25.2キロメートルの河川です。流域面積は61.6平方キロメートルです。

 

小平市を流れ出した石神井川は、西東京市の南を流れて練馬区に入ります。西東京市までの上流部は湧き水のみによって涵養される小河川で、流量は多くありません。練馬区に入ると、富士見池や三宝寺池、豊島園池などの湧水などを合わせて流量が増し、板橋区では田柄川を合わせて北区に入り、そこで隅田川に合流となります。

 

石神井川の水源は、今でこそ小金井ゴルフ場の敷地内にありますが、かつてはその西側にある小平市鈴木町の鈴木小学校にあったとされています。川の地形や埋め立て跡から、その痕跡を伺うことができるようです。

 

石神井川は、現在の板橋区加賀付近から谷の底が深くなり王子へと蛇行が続く渓流となっていました。「石神井渓谷」、「滝野川渓谷」、「音無渓谷」などと呼ばれていました。明暦2年(1656年)、永田九郎兵衛の普請により、現在の音無橋(北区)付近に石積みの堰堤(石堰)を設置しました。ちょうど王子神社と南側の飛鳥山の間です。これは、隅田川からの海水の遡上の防止と、旧石神井川の河道を流れる谷田川流域の利水のためであったと考えられています。石堰を落ちる石神井川本流は「王子の大滝」と呼ばれ、名所として絵図にも描かれています。この石堰で堰き止められた石神井川の水を東へ流したのが「石神井用水」です。別名、「王子川」、「音無川」と呼ばれています。

 一般に武蔵野台地を流れる河川は、縄文海進後の埋没谷上の沖積低地をゆったり流れていますが、この石神井川は例外的に音無渓谷のような峡谷を形成し、滝を落としていました。

 

石神井川の名称は、石神井村(練馬区)のを貫流していたことに由来しています。「石神(シャクジ)」とは、東日本に多い「ミシャクジ」信仰で祀られる神体の石棒を指します。村内には、昔からこの石神があり、これは三宝寺池(石神井公園)から出たとか、或いは井戸を掘っていたら土中から出てきたとか、言われています。別称で「滝野川」と呼ばれていますが、これは王子の辺りで滝の音を立てて流れていたからだと言われています。

おはようございます。「コロナよりも怖いのは人間だった」との見出しのニュース。今の地球の本質をついた言葉なのかもしれません。ウイルスが流行し始めるとマスクやアルコール消毒液の買い占めが始まり、店頭から商品がなくなって、本当に必要なときに買えないという事態が生じます。そして今度はトイレットペーパー、ティッシュペーパー、紙おむつ、更には冷凍食品やインスタント食品、缶詰などの保存食品に至るまで。誤った情報に翻弄される人々の醜い姿は、客観的にみていても怒りを通して滑稽さを覚えます。今の地球人は、自分たちの無知、無明の愚かさを知り、それ自体を恥じるべきです。

 

さて、本日は「新堀川(しんぼりがわ)」について紹介したいと思います。新堀川は、17世紀の半ばに、江戸幕府が入谷(東京都台東区)、千束(台東区)の田圃の排水と舟運のために開削した水路で、昭和初期には暗渠化されてしまいました。

 

新堀川は、もともとは音無川から分流した「千束堀川」の下流部分にあたります。現在の千束一丁目にある金竜小学校の際をまわり、松が谷、元浅草、三筋、鳥越と西浅草、寿、蔵前との境を南に流れ、浅草橋三丁目で鳥越川と合流していました。

吉原遊郭を囲む「お歯黒どぶ」は、音無川から水が引かれてくるのですが、遊郭の東南側の堀の跡が今の花園通りです。この堀とそこから南側へ向かう流れが千束堀川です。現在のかっぱ橋通り辺りから下流が新堀川となっていたようです。

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