おはようございます。東京をはじめ、日本でのコロナウイルスの感染拡大が止まりません。首都圏では外出自粛が勧告される中、昨日は雪が降ることで、都心でもかなり人通りが少なくなりましたが、それでも出歩く人は後を絶たないようです。世界的に人の移動が大きく制限されると、経済がこれだけグローバルに、そして複雑に絡み合っているために、それによる連鎖の広がりを推し量ることはできません。何がどう影響し、それが足し算なのか掛け算なのか、或いは累乗なのかは、その時の状況次第で変わってくるので、神でも予想するこは不可能でしょう。今、この地球で行っているこは、すべてが自分たちの行動の結果だと思うことです。
さて、本日は「箱崎川(はこざきがわ)」について紹介しようと思います。箱崎川は、隅田川の日本橋中洲から日本橋川の現在の亀島川分岐点までの本流1.06キロメートルと、本流から現在の日本橋箱崎町と中洲の境で分岐して隅田川に流れる支流0.12キロメートルで構成されていました。
上流から流れてきた日本橋川は、北新堀町(日本橋箱崎町)と南新堀町(中央区新川)を結ぶ湊橋(みなとばし)の手前で、東側から流れ込む箱崎川、西側に向かう「越前堀(えちぜんぼり)」と交差した形となっていました。箱崎川には崩橋(くずればし)、越前堀には霊岸橋(れいがんばし)が架けられていました。
この短い箱崎川沿いには、行徳河岸、蛎殻河岸、永久河岸、菖蒲河岸があり、多くの蔵が建てられていたそうです。箱崎側には浜町堀や稲荷堀に通じており、隅田川、日本橋川、小名木川、浜町堀など江戸の運河を利用する水運の中継地点として、多くの船が行き交っていました。
「山もありまた船もあり川もあり、数はひとふたみつまたの景」〔半井卜養(なかいぼくよう)〕と詠われたように、隅田川河口に堆積した中洲の影響で、川が三方に分かれた地点を「三ツ又」、「三ツ俣」、「三ツ股」と呼ばれていました。三方とは、隅田川本流、中洲西岸の箱崎川、中洲南側の箱崎川支流の三方向に分かれる場所です。別名、「三ツ又別れの淵」とも呼ばれ、この付近が淡水と海水の分かれ目にあたっていたと考えられています。
昭和46年(1971年)、高速道路及び東京シティエアターミナル建設のために箱崎川本流が埋め立てられ、翌昭和47年(1972年)には支流も埋め立てられて箱崎川は消滅しました。