東藝術倶楽部瓦版 20200309:【江戸の川その57】不忍池から流れ出す「忍川」

おはようございます。コロナウイルスの経済への影響が懸念される中で、ふと気になったのが、なぜこの時期かということです。今年最大のイベントといえば、東京オリンピック・パラリンピックの開催です。その経済効果は直接的効果・レガシー効果を含めて約32兆円(開催の決まった2013年~開催10年後の2030年まで)と試算されており、うち開催までの8年間で21兆円、開催後の10年間で11兆円となっています。仮にここで開催が中止となれば、3兆円ともくされているオリンピックの開催費用のうち、これまですでに投資された資金が無駄になるばかりでなく、開催に伴う経済効果、更にはその後の将来利益までが失われることになります。これは日本経済にとって壊滅的な打撃となることでしょう。しかも、日本の最大の貿易相手国・中国との間での経済関係も大きく縮小されることが予測されているわけです。陰謀説の立場に立てば、日本経済に壊滅的な打撃を与え、日本経済を牛耳る格好の機会なのかもしれません。

 

さて、本日は「忍川(しのぶがわ)」について紹介しようと思います。忍川は、上野の不忍池を水源として、東南端の上野黒門町(台東区上野)から東に流れる河川です。不忍池を流れ出た水は、下谷西町(東上野)付近で南下し、西町と竹町(春日通り筋)を東に流れて、小島町(小島町)の西側で「三味線堀」に注いでいました。川の下流は、この三味線堀から、さらに鳥越川が続くことになります。

 

忍川の成立時期は定かではありません。正保年間(1644年~1647年)に作成されたとされる絵図には、不明瞭ながらも川らしきものが描かれており、延宝年間(1673年~1681年)から天和年間(1681年~1684年)の絵図には、不忍池から東側に流れる川の存在がみてとることができるとのことです。発掘調査によると、忍川は自然の河川ではなく、藍染川が流入する不忍池の排水のために人工的に開削された水路とのことです。

当初、不忍池の東南端が落口となって三橋方面へと続いた水路ですが、文政3年(1820年)頃には不忍池の湖畔の西部から南部にかけて土手が形成されて堀ができ、北端から流入する藍染川と忍川が堀で繋がります。そして、忍川から三味線堀、鳥越川を通じて隅田川へと抜ける水路が完成しました。不忍池畔に土手が築かれたのは延享4年(1747年)から宝暦2年(1752年)にかけてのことで、不忍池の浚渫によって出た泥土を使って土手を築きました。

 

この土手ができたことで、池の南側の仲町から茅町までの土手は「新地」と呼ばれ、料理茶屋、楊弓場、講釈場などができて賑わい、寛永2年(1749年)には弁天島から茅町土手に向かって四つ折りの橋が架けられました。水面に反射して橋が八つに見えたことから、「八つ橋」と呼ばれ、名所になりました。こうして新地が盛り場として賑わい始めたのですが、出会い茶屋による風紀の乱れと汚水の放流によって河川の汚染がもたらされたことから、宝暦2年(1752年)に幕府は茶屋の撤廃と八つ橋の撤去を命じます。

 

その後、文政3年(1820年)には再び土手が造成されます。三橋寄り池の落口から茅町裏まで、長さ6~7町(約650760メートル)、幅6~7間(約1013メートル)で、汚水が池に入らぬよう土手と南側の切り落としの間に幅3間(約5.3メートル)の隙間を設けたそうです。

 

明治に入り、藍染川が不忍池の手前で分岐して、池に流入する流れと池の周囲をたどって忍川へつながる流れが作り出されます。その後、明治末期には暗渠化が進み、大正初期には完全に暗渠となって忍川は姿を消しました。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年3月 9日 08:10に書いたブログ記事です。

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