東藝術倶楽部瓦版 20200310:【江戸の川その58】徳川将軍が寛永寺参詣に渡る「三橋」

おはようございます。昨日のニューヨーク株式市場ではダウ工業株30種が2,000ドルという過去最大の急落をみせています。ここ2、3日で円高ドル安が進行し、原油価格も大きく下落。そのすべてが新型コロナウイルスの感染拡大に伴う景気の先行きに対する懸念という一言に帰されています。専門家と言われる人の意見を聞いた日本国政府は、過度に恐れる必要はないと言いますが、政府自身の措置や各国政府の対応をみれば、明らかに大衆を過度に恐れさせる方向に導いています。このように、言っていることとやっていることが正反対の現状をみれば、国民からの信頼がますます失われていくことは必至です...と言いたいところですが、国民も国民でそのことに気が付いていないことに、歯がゆい思いをせざるを得ません。こんな日本に誰がした!

 

さて、本日は忍川に架かっていた「三橋(みはし)」について紹介しようと思います。三橋は、現在の上野公園入口南側の広場辺りに架かっていた三つの橋を指します。橋が架けられた詳しい年代は分かっていませんが、元禄10年(1697年)には下谷広小路(台東区上野広小路)の登場とともに三つの橋が架けられていたことが、当時の絵図から分かります。ただ、延宝年間(1673年~1681年)から天和3年(1683年)の絵図には一つの橋しか確認できません。

元禄10年といえば、上野寛永寺の根本中堂が建設中で、翌元禄11年(1698年)に完成します。このほか、元禄年間には山門である文珠楼や清水堂が完成するなど、寛永寺が徳川将軍家の菩提寺としての地位を揺ぎ無くした時期でもありました。ですから、三橋の建設や下谷広小路の設置もその整備の一環として行われたものと思われます。

 

三つの橋の真ん中の橋は「御橋(おはし)」と呼ばれ、徳川将軍が菩提寺である寛永寺に参詣するときに渡る橋で、将軍以外に渡ることができなかったとされています。普段、一般の人が渡る際には、両側の橋を利用していました。三橋という名称は、この三つの橋からきています。

 

「広小路元仁王門前にて忍川に架せり、三橋並びあるゆへ呼名とす。中の橋は御成通にして幅六間余あり、左右は幅弐間許、三橋共長三間余の板橋なり」(『御内府備考』)

 

この記述からすると、真ん中の橋の幅は6間(約10メートル)、両側の橋はそれぞれ2間(約3.6メートル)、長さはそれぞれ3間(約5.4メートル)あったことが分かります。

 

この三橋は、明治以降に忍川の暗渠化とともに姿を消すことになります。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年3月11日 11:08に書いたブログ記事です。

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