おはようございます。WHOがついに今回の新型コロナウイルスの感染拡大に対してパンデミックとの認識を示しました。中国では感染者数の増加が少なくなりつつあるものの、米国や欧州ではますます拡大する方向にあり、日本では拡大しているのか否かの判断すらできない状況にあります。ニューヨーク株式市場ではダウ平均がまたもや大幅に下落。いったい世界で何が起きているのか、この先どうなるのか? 最初に今回の混乱を仕掛けた者ですら、予想外の展開になっているのではないでしょうか?
さて、本日は「鳥越川(とりごえがわ)」について紹介しようと思います。鳥越川は、先に紹介したように、不忍池から流れ出た忍川が三味線堀に至り、三味線堀から隅田川に至るまでの流路を指します。もともと三味線堀は寛永7年(1630年)に鳥越川を掘り広げて造られたものでした。
三味線堀を流れ出て南に向かった鳥越川は、西鳥越町(台東区鳥越一丁目)の地先で東に向きを変え、現在の蔵前橋通り(元鳥越町から福富町辺り)とほぼ平行に南側を流れ、向柳原町(浅草橋)で南に鍵の手に曲がり、そのすぐ先で東に曲がって「御蔵」の外側を廻るようにして隅田川に注いでいました。先に紹介した新堀川も浅草橋で鳥越川に合流していました。この鳥越川も、大正12年(1923年)の関東大震災以降、次第に埋め立てられ今は暗渠になっています。鳥越川には、現在の須賀橋交番前交差点辺りに「鳥越橋」が架かっていました。「須賀橋」、或いは「天王橋」とも呼ばれていました。
蔵前橋通りの浅草橋三丁目交差点の近くに「鳥越神社」があります。この神社の創建は白雉2年(651年)と言われ、かなり古いことが分かります。日本武尊が東征の折にこの地に滞在し、その遺徳を偲びこの地にあった白鳥山に「白鳥大明神」を祀ったのが始まりとされています。永承年間(1046年~1053年)の頃、奥州征伐に向かう八幡太郎源義家が白鳥に浅瀬を教えられ、軍勢が安全に川を越えることができたことから、義家は白鳥大明神のご加護に感謝して「鳥越」の社号を贈ったと伝えられています。鳥越川の名称は、この鳥越神社からきています。ちなみに、白鳥山は小山であったようで、正保2年(1645年)頃から切り崩され、隅田川河岸の埋め立てに使われ、跡地は町屋になったとのことです。
鳥越川が農産物や建築資材、汚わい(糞尿)等生活物資の運搬に利用され、三味線堀がそれら運搬船の船溜りだったことは、前回紹介した通りです。
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