東藝術倶楽部瓦版 20200319:【江戸の川その63】火除地を堀割して水運物流に-「龍閑川」

おはようございます。愛知県蒲郡市で新型コロナウイルスに感染しながら、ウイルスをばらまくと言ってフィリピンパブを訪れ、実際に従業員1名が感染したことで問題になっていた50歳代の男が、コロナウイルスによる肺炎で亡くなったとのことです。肝臓がんを患っていたようですが、つい先日まで元気な様子だった姿をテレビ画面で見ると、タイミングといい、結末といい、何か因縁めいたものがあるように思います。昨晩、NHKの解説委員と会食した際にも、この件が話題になり、表では言えないけれど何か裏があるのではないかと、冗談交じりではありましたが、盛り上がっていました。このような悪い心根を持っていると、ウイルスもその気を受けて活性化し、その身体にも害を及ぼしてしまう...というのは考え過ぎでしょうか?

 

さて、本日は「龍閑川(りゅうかんがわ)」について紹介していきたいと思います。龍閑川は、日本橋川に通じる江戸城外堀を鎌倉河岸の東端、すなわち龍閑町・西今川町(千代田区内神田)と本銀町(中央区日本橋本石町)の間で分流し、東北に向かって流れ、亀井町(中央区日本橋小伝馬町)で浜町堀と合流していた人工の堀です。「神田堀」、「神田八丁堀」、「銀(しろがね)堀」などとも呼ばれていました。

 

明暦3年(1657年)の明暦の大火の後、江戸市中に大規模な防火対策が施された際に、江戸城外堀の東北側には長さ八丁(約870メートル)の防火堤防が築かれました。天和3年(1983年)頃までには堤防の周辺が火除地となっていましたが、元禄4年に江戸城外堀と浜町堀をつなぐ割堀が町人の負担によって作られました。その目的は、主に物資運搬用の水路として利用するためでした。この堀は日本橋と神田の境界とされ、当初は神田八丁堀、銀堀と呼ばれており、後に龍閑川と呼ばれるようになりました。

 龍閑川の名称の由来は、日本橋川河口付近に江戸城殿中接待役の井上龍閑の屋敷があったからと言われています。龍閑川は「竜閑川」と表記されることもあります。この龍閑川を使った水運物流によって、日本橋や神田一帯は大きく発展することができました。

 

安政4年(1857年)、龍閑川はいったん埋め立てられます。明治16年(1883年)に、東京市の水運の発展とともに堀留として残っていた浜町堀を神田川まで延伸させる工事が行われ、その際に龍閑川も再び堀割されることになりました。その後、戦後のガレキ処理のために昭和23年(1948年)から再度埋め立てが始まり、昭和25年(1950年)には水路としての龍閑川は消滅しました。現在、外堀通りの交差点には「龍閑橋」の名称が残っています。

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このページは、東藝術倶楽部広報が2020年3月19日 08:02に書いたブログ記事です。

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